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こんなリーダーになりたい

24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない


先日、ステルスバーグ監督の映画「リンカーン」を見た。主役のダニエル・ディ=ルイスはたしかに本物のリンカーンかと思うほどの風貌であったし、これぞまさしくリーダーともいうべき迫力ある演技であった。アカデミー賞主演男優賞というのもうなずける。
リンカーンは自由と正義のため奴隷解放をしたアメリカ史上に残る勇気ある大統領として44代大統領の中で1,2位を争う人気がある。
しかしリンカーンについては南北戦争の功罪を抜きに語ることはできない。
連邦を守るという信念から生じたこの南北戦争の戦死者は62万人という異常さだ。
総人口を現在の人口(3.1億人)として計算すると、この戦死者数はおよそ600万人に相当する。さらに戦争に加わった北軍のおよそ270万人の兵士のうち200万人が21歳以下の若者、そのうち半数が18歳以下という。
しかも当時の武器の水準からいえば、一度の大量殺戮は起こりにくく、いわば一対一の肉弾戦であり壮絶な殺し合いであったと想像される。
南北戦争はリンカーンがサムター要塞の防衛を命じたことから始まった。この要塞は守ることができないことはわかっていたし、他に選択肢は複数あったにも拘わらずリンカーンはそれを命じた。
このことが4年間に及ぶ長期に亘る戦争と62万人の戦死者に繋がった。政治家としての判断が甘く史上まれにみる悲惨な戦争になったことについては大きな責任を負わねばならない。
もちろん最初から長期になるとは誰も思わなかっただろう。この当時、北部23州の総人口は2200万人、南部連合11州のそれは900万人、しかも南部の350万人は黒人奴隷だった。加えて北部は発展した工業、豊かな農業、南部を圧倒する海軍力。北部が短期的に決着をつけられると考えたとしても当然であった。
この戦争を長引かせた原因の一つは信じられないほどの北軍司令官の無能、それに対し南軍には天才とも言えるロバート・リー将軍の存在が大きかった。
リンカーンは1809年ケンタッキーの農家の子として生まれ、父母とも無学で小さいころから勉強をしたいリンカーンと労働させようとする父親とは抜きがたい確執があったようだ。
9歳の時母を亡くし、姉も弟も亡くなるというように身近な家族を失い、死を日常のものとして育っていった。
後年、子ども4人のうち2人まで亡くすという悲しい体験もあり、リンカーンは人一倍人の命の尊さとはかなさを感じていたと思われる。
弁護士の仕事をしているうちに政治に興味を抱き、分裂の危機にあるアメリカの連邦を守る政治家は今や「自分以外に誰もいない」という確信を持つに至る。
リンカーンの特長は、自らの思想や政策をとことん理論的に詰めたうえで、その正しいことを明確な言葉で主張し、それを他人に押し付けるのではなく実に控えめに遠慮がちに選挙民に接するという姿勢で貫いたことである。それは38歳でイリノイ州の下院議員になってから大統領2期のとき56歳で暗殺されるまで続いた。
メアリー・アン・トッドとの結婚生活は彼女の浪費癖や精神不安定で、また政治の世界では予想もしない数々の困難が起こり、公私とも心休まる日は少なかった。こうした環境の中で自分を見失うことなく、常に国民の幸せは何かを問いつつ、国民に対し、まるで神のごとき正しいメッセージを与え続けた。
一日も早くこの悲惨な戦争を終えようと心血を注ぎ、一方で幾度も戦地に出かけ負傷者を見舞い、戦死者の家族を弔問し、勇気づけた。それでなくても年齢より老けて見える風貌はさらに年老いた哲学者のようになっていった。
このようなリンカーンの生き様や人に対する優しさが、次第に国民のゆるぎない支持を集め、1864年の大統領選では圧倒的多数で再選される。

リンカーンの考え方や政策は何度も自分で検証し練り上げられているために極めて論理的でありほとんどぶれない。
リンカーンの偉大さや人気の源は彼の発するその言葉にある。
ゲティーズバーグで北軍が勝利した時、亡くなった兵士のための国立墓地の儀式のときリンカーンが行った演説はわずか2分であった。
「人民の人民による人民のための政治をこの地球上から決して消滅させてはならない」という有名なしめくくりで終わる272語のスピーチ。このスピーチはこの戦場で死んでいったすべての兵士への悼みであり敵も味方もない、未曽有の戦いの中で南部兵士には「赦し」の心境に達していた。「目には目を」の恨みや憎しみを超え慈悲と愛を以って接すべきことを述べている。
集まった人たちは敵に憎しみを持った人たちであり、リンカーンの考え方を素直に受け入れることは難しかった。北部の愛国心を自賛し、彼らの勇気と忍耐を讃える方がどれだけ民衆に受け入れ易かったか。
事実、聴衆の意識とリンカーンのそれとのあまりの乖離に演説が終わったとき、ほとんど拍手はなかったという。しかしその後ほとんどの国民がこのスピーチに感動し、50年後にはこの演説は小学生が暗記するほどになっている。
1858年、共和党の上院議員候補の時、歴史に残る名演説「相争う家、立つことあたわず」―私が望むのは国内で争うのを止めることーを語っている。
1963年の奴隷解放宣言もわかりやすく格調の高い内容であった。
リーダーの発する「言葉」の重要性と戦略性を如実に示す例は、リンカーンを以って最高であるといっても過言でない。
リーダーは、仲間に「向かうべき方向性」を明示しなければならない。仲間の先頭に立って、「こっちへ進もう」と旗を振らなければならない。
そして、人間社会において、「旗」とは言葉にほかならない。自らの意志や思想を最も明確に伝えることができるのは言葉でしかなく、リンカーンの演説のレベルの高さは、彼の思想や哲学の高さを示す。
もう一つ、リンカーンのリーダーとして優れたところは死を全く恐れなかったことである。大統領選に勝利したとき、暗殺の脅迫状が自宅に届いたが、リンカーンは「どんなにガードしても殺そうと思えば方法はいくらでもある」といって無頓着に行動した。
死があまりにも身近だった人生を歩んできたこともあるが、己の信念に基づいて行動した結果、命を落としても仕方がない、それは神の計らいだと考えていた。
彼が大統領に就任すべく故郷を去る時の最後の挨拶は「この別れの時に私が感じている悲しみを理解できる人は誰もいない。私はいつ戻って来られるのか、また実際に戻って来られるのか分からず去っていかねばなりません。私の前にはワシントンが背負った以上に重い仕事が待っています」であったがこの時すでに死を予見していたのだろうか。
他にリンカーンの特筆すべきことは人事において適材適所に徹したことだ。
特に2期目に、サーモン・チェイスを最高裁長官に任命した。彼は財務長官だった3年間、リンカーンに最も逆らった人物として知られる。そのような過去やチェイスが急進派共和党員であることも完全に無視した。彼が重視したのはチェイスは有能な弁護士であり、最高裁長官として最も適していると考えたからである。あくまで仕事に対する能力で人事を決めていた。
南北戦争後にアンドリュー・ジョンソンという民主党の南部人を副大統領に選んだが、リンカーンはこのようなことを平然と実行する勇気ある卓越したリーダーであった。


12. 小倉昌男 当たり前を疑え 13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣 14. 吉田松陰 現実を掴め 01. 土光敏夫 無私の心 02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力 03. 上杉鷹山 背面の恐怖 04. 西郷 隆盛 敬天愛人 05. 広田弘毅 自ら計らぬ人 06. チャーチル 英雄を支えた内助の功 07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと 08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人 09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー 10. 孔子 70にして矩をこえず 11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
目次
01. 土光敏夫 無私の心
02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力
03. 上杉鷹山 背面の恐怖
04. 西郷 隆盛 敬天愛人
05. 広田弘毅 自ら計らぬ人
06. チャーチル 英雄を支えた内助の功
07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと
08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人
09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー
10. 孔子 70にして矩をこえず
11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
12. 小倉昌男 当たり前を疑え
13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣
14. 吉田松陰 現実を掴め
15. キングスレイ・ウォード 人生に真摯たれ
16. 本田宗一郎 押し寄せる感情と人間尊重
17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力
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23. セーラ・マリ・カミング 交渉力とは粘り強さ
24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない
佐々木のリーダー論

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