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こんなリーダーになりたい

17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力


私は高校3年のとき、山岡壮八の「徳川家康」を夢中になって読んだことがある。
たしかこの本は20巻以上もあり(原稿用紙17400枚という)世界最長の小説と言われていたので、受験勉強をしなければならない私は時間を気にしながら、それでもあまりの面白さにこれを1ヶ月ほどで読んでしまった。
戦国時代のリーダーと言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人が代表的人物として取り上げられるが、先般、ある週刊誌の「日本の歴史上のリーダー・ランキング」という著名人に聞いたアンケートを読んだが、家康がトップであった。
やはり天下を安定させ、250年の揺るぎのない幕藩体制を築いた実績から考え、このアンケート結果はうなずける。
家康は目標を掲げ、努力と忍耐を重ねた英雄であるが、そのリーダーとしての優れたところは3点である。
まず第一は、海道一の弓取りで、戦いでは極めて有能な第一線の指揮者であったこと、第二は事に当たって、常識人で、律儀者で、忍耐力があったこと、第三に抜群の統治能力の高さと経済的センスが豊かなことである。
家康は毛利元就に多くを学んだと言われているが、私から見れば、厳島合戦で敵将陶晴賢が派遣したスパイを反対にだまし、陶氏を亡ぼした後、尼子を攻め、75歳で世を去るまで266戦不敗の55年間を送った元就は、その調略と持続力で家康をはるかにしのぐものがあったと考える。
しかし、家康の偉大な歴史的実績の重さには元就の器量は、影を薄くならざるを得ない。
家康の強みのまず第一の武力であるが、織田信長に敗れた今川義元から独立した後の行動を見ると、家康の考え方の基本は「武」であったことがわかる。
戦国時代を生き残るにはさまざまな能力を必要とされるが、まず第一に大事なことは戦に強いということである。三河一向一揆における戦いぶり、武田信玄との三方ヶ原の戦いで見る家康は、文字通りの「猛将」であり「闘将」であった。
家康は常に正々堂々の正攻法で臨み、その野戦指揮官としての実力は諸侯の認めるところであった。
だが武力、武勇だけでは優れたリーダーとは言えない。
世の中を治めるためにはそれなりの知恵というか、バランス感がいる。
信長の場合は、登用の基準は完全に能力主義であり、途中入社の明智光秀も、足軽出の秀吉も出世させ、子飼いの柴田勝家などは極めて不満であったようだ。
家康の場合は、常識的というか、バランス感覚があり、三河譜代も能力ある家臣もどちらも上手く使う。四天王でいちばん石高の多い井伊直政などは途中入社であったし、信玄の遺臣も有能な武将はスカウトした。
また、生前の家康の評価は「律儀者」であった。織田信長との織徳同盟を、彼は律儀に守り通し、そのため正室の築山殿を殺し、嫡男の信康を切腹させたことまである。また、家康には秀吉を謀殺できるチャンスが幾度もあったが、決してそれはしなかった。
元就と違って常に正攻法、常に大義名分を大事にした。
秀吉に従い、北条氏を攻め滅ぼした小田原陣後、秀吉に関東移封を命じられた。
慣れ親しんだ三河を捨てるというこの命令に対し,臣下の者は反発したが、家康はひとつの文句も言わずに、7月13日から8月9日までの間にすべての移封を敢行した。
この決断の速さと思い切りの良さには、さすがの秀吉も驚愕したという。
自分より強いものには従うということは、戦国時代の常識であったし、その常識に家康は従ったまでである。
のちに、関ヶ原の戦い後、淀君やその周囲の家臣たちが、家康の様々な要求に反発し、戦いに挑み自滅したが、家康からみれば「強いものに従う」という常識のない者たちと思え、哀れみを感じたことだろう。

次に家康の優れた「統治能力」と「経済的センス」について触れたい。
統治能力の高さについて言うと、8歳から19歳まで今川家に人質になったが、この時代は家康にとっては、生命が保障され、安全な生活のもとで、じっくり勉強ができた時期でもある。
家康にとっての学問とは、実学であり、雪斎の教えを受け、さまざまな学問を修めていった。
吾妻鏡を愛読し、貞永式目、建武式目を基本に、今川仮名目録を加えた法治主義を学習していく。藤原惺窩からは貞観政要の講義を受け、法律、政治、軍事、財政等、統治者の実学を学んでいく。
のちに制定した武家諸法度、禁中並公家諸法度、寺院法度などは、この時代の家康の学習の成果であろう。
無法が横行した戦国時代から近世日本の社会のもとを作った実績には、この時代の学習効果が大きく、信長、秀吉、家康の3人の中で、家康ほど日本の法制史と中国的な政治学に関心を持ったものはいない。
家康はいわゆる教養主義的な学問にとらわれず、学ぶべきことと、それを学び取りかつ活用する方法を探求していた。こうした面では天才と言える。
家康はある意味、日本で成功するタイプの典型ともいえる。決して「おれが、おれが」とは出しゃばらない、ある程度事が成って、征夷大将軍になれという人がいても受けない。いつも現実的で実際問題から手を付ける。世論や大義名分を、つまりコンセンサスを大事にしてそれをあわてず「待ち」でする。
それを桶狭間出陣19歳から、75歳で死ぬ前の年に大坂城を始末するまで55年間続けたのだから、超人ともいえよう。
もうひとつ、家康の特長は、経済人としての能力が高いということである。
基本的に,華美嫌いで質素、いえばケチであったからよくお金がたまる。
北条氏を攻め滅ぼした小田原陣後、秀吉に関東移封を命じられた。
自分より強いものには従うという家康の哲学でもあったが、それよりも、北条氏は、5代100年の善政を敷き、年貢は武田信玄の7公3民に対し、4公6民であり、経済統一がなされ、永楽銭を関東の通貨としていた。そうした肥沃な関八州の経済的価値を見抜いた家康の「経済人としての目」の確かさは尋常ではない。
家康は伊奈忠次を総代官に任じ、河川の整備、街道・港湾の整備、農地の開拓に着手し、予測通り富裕な土地を手に入れることができた。
家康は政策家にして、政略家である。
政略家とはあらゆる権謀術数を弄して権力獲得に走る最短コースを知っている。
政策家とは人民の潜在的願望を知り、最も少ない犠牲でそれを達成する手段を知っているものである。
天下の人々が、潜在的に何を望んでいるかをよく知り、それを政策の上で実現する手段を知っていた。人々は戦いはもうたくさん、平和な政治的体制の下で生存する権利を保障してほしいと考えていたが、そうした社会を築き上げる達人であった。
譜代・外様の配置、尾張・紀伊・水戸御三家の創設、参勤交代、貨幣経済の導入など安定社会の礎を築いていった。
家康は野盗の横行していた戦国時代を、女の一人旅ができ、芭蕉が丸腰で旅行できる法治社会を作ることができた。
家康を総括すると、情に溺れず、自己規制を貫き、信長、秀吉のような理屈にならない行為はせず、至難なことを忍耐強く生涯継続した。
身体が大事と健康法に心がけるとともに、「統治には強い権力が必要、政権維持には善政が不可欠」ということを徹底した類稀なるリーダーであった。


12. 小倉昌男 当たり前を疑え 13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣 14. 吉田松陰 現実を掴め 01. 土光敏夫 無私の心 02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力 03. 上杉鷹山 背面の恐怖 04. 西郷 隆盛 敬天愛人 05. 広田弘毅 自ら計らぬ人 06. チャーチル 英雄を支えた内助の功 07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと 08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人 09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー 10. 孔子 70にして矩をこえず 11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
目次
01. 土光敏夫 無私の心
02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力
03. 上杉鷹山 背面の恐怖
04. 西郷 隆盛 敬天愛人
05. 広田弘毅 自ら計らぬ人
06. チャーチル 英雄を支えた内助の功
07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと
08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人
09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー
10. 孔子 70にして矩をこえず
11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
12. 小倉昌男 当たり前を疑え
13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣
14. 吉田松陰 現実を掴め
15. キングスレイ・ウォード 人生に真摯たれ
16. 本田宗一郎 押し寄せる感情と人間尊重
17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力
18. ヴィクトール・E・フランクル 生き抜こうという勇気
19. 坂本龍馬 謙虚さゆえの自己変革
20. 浜口雄幸 男子の本懐
21. 天璋院篤姫 あなどるべからざる女性
22. 新渡戸稲造 正しいことをする人
23. セーラ・マリ・カミング 交渉力とは粘り強さ
24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない
佐々木のリーダー論

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