人は誰しも、「何か」にとらわれて生きているようだ。ゼロから宅急便事業を創造し新しいビジネスモデルを立ち上げたヤマト運輸の小倉昌男も、かつてはある「思い込み」にとらわれていた。
父親である康臣が関東一円をカバーする路線トラックのネットワークによって成功をおさめたが、これによって、「トラックの守備範囲は百キロメートル以内。それを超えたら鉄道の領域」と会社全体が思い込んでいたようだ。
ところが、戦後になると、あくまでも近距離輸送にこだわり続けたヤマトは競合他社の後塵を拝するようになり、経営再建策として打ち出したのが事業の多角化だった。
通運事業、百貨店配送、航空、海運から梱包業務までを行う総合物流企業を目指したのだ。
しかしこれが裏目に出る。各事業が伸び悩むうえに、基幹事業である商業貨物の収益までも悪化していくのだった。そして、業績悪化がいよいよ危険水域に達するというタイミングで、小倉は社長に就任する。
”負け犬”となったヤマト運輸の業績をどうすれば好転させることができるのか、小倉は日夜、そればかりを考えていたという。
そんなある日、ひとつの新聞記事を見た。
それは、吉野家が豊富に揃えていたメニューを、牛丼一本に絞ったことを報じるものだった。そして、その記事によって「大量少量を問わず、どんな荷物でも運べる会社」という既成の会社の信念に疑いの目を向けたのだ。
「吉野家の場合は『牛丼ひとすじ』という新しい業態を開発し、チェーンを展開して成長していく。一方、ヤマト運輸の得意とする分野は、消費者に近い小規模企業や家庭から出る小さな荷物である。ならば、思いきって対象とする市場を変え、メニューを絞って新しい業態を開発したら、道が拓けるのではないだろうか――」
これは、極めて重要な発想の転換である。
自らの「信念」=「思い込み」を脱し、少量小口の個人宅配事業に一本化するという構想が芽生えた瞬間だからだ。これが、後に宅急便というイノベーションを生み出す原点となるとともに、「既成概念」への挑戦の幕開けでもあった。
私は、ここに小倉という稀有なリーダーの特質を見る思いがする。
なぜなら、人間にとって、自らの「思い込み」に気づくことは至難のワザだからだ。
「思い込み」とは自らの思考の枠組みそのものである。その思考の枠組みを自らの思考によって検証するのは、たとえてみれば、鏡を見ずに自分の顔を見るようなもので、常人には、なかなかできることではない。しかし、小倉は、たった一本の記事によって「思い込み」を打ち破ることに成功する。
小倉は、しばしばマーケティングや経営に関する研修会に出かけたり、欧米に出張したりすることで、何事にも学ぼうとする進取の心がけがあったことも、幸いしたようだ。
ひとつの会社で長く仕事をしていると、どうしてもその会社に同化してしまいがちだ。
その会社特有のやり方に疑問をもつこともなくなり、それが「当たり前」になってしまうのだ。しかし、それが本当に「当たり前」なのかどうか疑わしいものである。
実は、同質性の高い者ばかりに囲まれているために知らず知らずのうちに陥ってしまった「勘違い」かもしれないのだ。
しかし、そこへ「異質な者」が入ることによって、小倉の場合は、異質なものを取り入れることによって「本当に当たり前なのか?」という視点が持ち込まれたようだ。
「サービスが先、利益は後」 小倉の有名な言葉だ。
宅急便事業の立ち上げ時期に社内に向けて発した標語で、このモットーを徹底したことによって、ヤマト運輸の事業は急拡大したと言っても過言ではないだろう。
各家庭から荷物を集配する宅急便事業は、地域ごとに営業所を開設し、ドライバーとトラックを配置するなど、初期投資に莫大な費用がかかる。それを回収し、利益が出るようにするには、とにかく荷物の数を増やさなければならない。そして、そのためには、サービスを向上させて利用者に便利さを実感してもらう必要がある。
しかし、サービス向上と利益には相反関係がある。サービスを向上させれば、経費が増えて利益が圧縮される。利益を追求すれば、サービスを向上させるのは難しい。
現場にいるドライバーはサービスの向上を主張するし、管理部門のスタッフはコストとメリットの計算に精を出す。もちろん、これはおよそすべての会社に起こる現象であり、どちらにも理はある。
しかし、宅急便の立ち上げ時期においては「サービス向上」が至上命題である。
だからこそ、小倉は、「サービスが先、利益は後」というメッセージを発することによって、両者の優先順位を明確に示したのだ。
この言葉が力を発揮した。
事業展開のスピードが格段に上がったのだ。1日1回だった集荷サイクルを1日2回に増強し、全国に集配エリアを拡大するなど、大小さまざまなサービス向上策を矢継ぎ早に実行。そして、初日の集荷数わずか11個だった宅急便事業を、たった5年で黒字化させることに成功したのだ。
もちろん、この言葉ひとつの力で、この偉業が達成されたわけではないだろう。しかし、「サービス向上と利益」のせめぎ合いを放置したままであれば、あのクロネコヤマトのスピード感を実現することはできなかったはずだ。
リーダーの発する「言葉」の重要性と戦略性を如実に示すエピソードではないだろうか。
リーダーは、メンバーに「向かうべき方向性」を明示しなければならない。混乱している仲間の先頭に立って、「こっちへ進もう」と旗を振らなければならない。
そして、人間社会において、「旗」とは言葉にほかならない。自らの意志や思想をもっとも明確に伝えることができるのは言葉でしかない。
ところが、これが難しい。なぜなら、世の中には、大切にしなければならない価値がやまのようにあるからだ。そして、それらは相反する緊張関係におかれている。
「利益とサービス向上」もそうだし、「競争と平等」「秩序と自由」など枚挙にいとまがない。その緊張関係のなかで、自らの人生観やその時々の状況にあわせて、方向や価値の優先順位を明示するのは簡単なことではない。
毎年、期の始めになると売上高の目標を厳命し、期中になって利益が未達のなりそうだと、今度は利益を確保しろという指令が下る。
安全月間になるともちろん「安全第一」の号令が下る。製品のクレームが来ると、「品質第一」で頑張れと命令が下る。
だが「第二」がなく、「第一」ばかりあるということは、本当の第一がない、ということだ。
たしかに、これでは社員は混乱するばかりだ。「第一」ばかりでは、自分では「旗」を振っているつもりなのだろうが、実際のところは単に「場当たり」的なだけだ。
要するに、「安全第一」と「品質第一」という緊張関係にある価値の間で優先順位をつけることができていないのだ。
もちろん、市場環境が激変する現代において、ときに「朝令暮改」もリーダーにとっては必要なことではある。しかし、そこに一本貫く価値観がなければ、誰もついていこうとは思わない。小倉の言葉は明解だった。
目次
01. 土光敏夫 無私の心
02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力
03. 上杉鷹山 背面の恐怖
04. 西郷 隆盛 敬天愛人
05. 広田弘毅 自ら計らぬ人
06. チャーチル 英雄を支えた内助の功
07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと
08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人
09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー
10. 孔子 70にして矩をこえず
11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
12. 小倉昌男 当たり前を疑え
13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣
14. 吉田松陰 現実を掴め
15. キングスレイ・ウォード 人生に真摯たれ
16. 本田宗一郎 押し寄せる感情と人間尊重
17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力
18. ヴィクトール・E・フランクル 生き抜こうという勇気
19. 坂本龍馬 謙虚さゆえの自己変革
20. 浜口雄幸 男子の本懐
21. 天璋院篤姫 あなどるべからざる女性
22. 新渡戸稲造 正しいことをする人 23. セーラ・マリ・カミング 交渉力とは粘り強さ 24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない 佐々木のリーダー論
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