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こんなリーダーになりたい

21. 天璋院篤姫 あなどるべからざる女性


昨年末、所用で鹿児島に行ったとき鶴丸城址で天璋院の像を見た。南国鹿児島にふさわしいなんとも凛々しい顔立ちであるが、彼女は若いころ、日に焼けて黒々とした肌を持つ健康そのものの女性だったという。
篤姫は1835年、摩藩島津家の一門・今和泉の5代領主・島津忠剛の長女として生まれる。幼少のころから聡明・利発で両親はじめ周囲の人は「この子が男子であれば」とその器量を評価していたという。
そうした評判が時の藩主島津斉彬の耳にも届き、斉彬は正月にわざわざ篤姫を接見することになる。篤姫は最近読んだ本のことを聞かれ。日本外史15巻を読破していてあと7巻を読みたいと答えて、斉彬はその知識欲と向上心に驚く。
その後、是非にということで島津本家の養女となり、そのあと徳川第13代将軍・徳川家定の正室として江戸に行くことになる。
第12代将軍の家慶の子どもたちは体が弱くほとんど亡くなり成長したのは家定だけだったが、その家定も病弱、加えて京都から迎えた公家出身の正室は2人とも子どもを産まずに亡くなった。斉彬は水戸藩主徳川斉昭や老中阿部正弘と協議し、身体が丈夫で利発な武家の娘をということで篤姫に白羽の矢がたった。
最初は側室という話もあったが、御台所に異論を持っていた水戸の徳川斉昭と福井の松平春嶽が篤姫に会ってその聡明さに感じ入り正室で進めることになったという。
島津家の分家から本家に養女で入ることすら大事件なのに、将軍の御台所に嫁すということはずいぶん破天荒な人事ではある。
跡継ぎになる家定の子が生まれないという深刻な状況だったこともあるが、なにより斉彬が篤姫の物おじせず、勉強家で前向きな性格を高く評価していたことがこのようなことに繋がったと思われる。
この篤姫―幼少の呼び名は「一子」(かつこ)で3人の兄がいるが、いずれも軟弱で一子がまだ5歳の時、8歳上の兄がよその子にいじめられそうになり、相手に砂をぶつけて兄を助けようとしたこともあるという逸話を持つしっかり者。加えて書物を読むのが好きでさまざまな古典を読みふけるなど、まさに「男であれば」と思わせるところがあった。
近衛家に奉公していた幾島という老女が、篤姫を徹底的に教育していくが、その幾島も篤姫の判断力や行動力に敬服するようになる。
大奥には3000人もの女中がおり、それなりの階級組織で、またさまざまなしきたりもあった。このとき大奥を取り仕切っていたのは3代の将軍に仕えた滝沢という総取締役であったが、篤姫の合理的な考えでの変革にさすがの滝沢も篤姫に心底従うようになっていく。
また政治のことでも常に筋の通った考え方を示すので、大老の井伊直弼とも対立することもあり、次の大老の安藤信睦などは「天章院さまはあなどるべからざる女性」と言い何かに付けて事前にお伺いを立てていた。
しかし徳川家に嫁いで1年9か月で家定が急死する。さらに同じ年に頼みとしていた斉彬まで死去してしまう。家定の死を受け篤姫はわずか26歳で落飾し、戒名・天璋院を名乗る。
家定の後継として家定の従弟で紀州藩主だった徳川家茂が14代将軍に就任する。その後、幕府は公武合体政策を進め、文久2年(1862年)朝廷から家茂の正室として皇女・和宮が大奥に入ることになる。
薩摩藩は天璋院に薩摩への帰国を申し出るが、天璋院は一度嫁したからには自分は徳川の人間だからと筋を通し江戸で暮らすことを選んだ。
本来なら役目も終わり懐かしい薩摩に帰れたら心穏やかな日を過ごせるであろうに。自分のミッションを強く自覚し一度決めた運命を引き受けその中で全力を尽くすという篤姫らしい生き様であった。

和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の違いもあってしばしば対立することがあったが、天璋院は大奥女中3000人の筆頭としてあくまで江戸風(武家風)の生活をするように説き伏せた。
天璋院の人間性や気配り、信念などを深く知るようになった和宮は次第に心を開くようになりお互いに尊重しあうようになる。
1866年家茂が21歳の若さで亡くなると、朝廷は京に帰るように勧めたが和宮は天璋院にならって断っている。
慶応3年(1867年)15代将軍徳川慶喜が大政奉還するが、その後に起きた戊辰戦争で徳川将軍家は存亡に危機に立たされたときは、慶喜を嫌っていた天璋院だが、朝廷や島津家に嘆願し徳川家の救済や慶喜の助命に尽力している。
天璋院は身寄りのない大奥女中260人〜300人の再就職や嫁入り先を心配しきめ細かく斡旋している。
江戸城を明け渡すときには、徳川家伝来の家宝を広間に飾り、大奥の品物を一切持ち出すことなく、討幕軍に明け渡し、徳川家の女の意地を薩摩・長州に見せつけた。江戸幕府の終焉の幕引きをして身一つで一ツ橋家に向かったという。
江戸を東京都に改められた明治時代、鹿児島に戻らなかった天璋院は、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。生活費は討幕運動に参加した島津家からはもらわず、あくまで徳川の人間として振る舞った。
勝海舟や和宮と親しくし、16代徳川家達に英才教育を受けさせ、海外に留学させるなど最後まで徳川家のために尽くした。
天璋院は薩長軍が江戸城を攻め滅ぼそうとしたとき、かっての同郷の竹馬の友であった西郷隆盛に無益な戦を止めるように1300字に及ぶ切々とした嘆願書を書いている。
この嘆願書が西郷に届く直前、勝海舟の意を受けた山岡鉄舟が西郷に会っている。「現在の日本の形成は同胞と争っている場合ではなく、外国からの侵略の危機に一致団結して向かうべき」であること、また「徳川慶喜は恭順の意を表している。降伏しているものに攻撃を加えるのは国際法上違法」という英国パークスの意見、そして西郷隆盛と勝海舟には個人的な信頼関係があったことなどの理由で、すでに西郷は江戸城無血開城を決めていたと思われる。
しかし、かつて敬愛する斉彬が実の娘のように可愛がっていた篤姫、そして自分も何度か会ってその真摯な人間性に惹かれていた篤姫の嘆願書が西郷の決断を後押ししたことは容易に推察できる。
ハリスに随行してきたヒュースケンの暗殺事件が起こった。彼は独身の28歳。残された母親がどれほど悲しい思いをするだろうかと考え、天章院は母親に1万ドルを送っている。
ほとんどの日本人の感情がいまだ異人討つべしの感があった当時、遺族への補償まではとっさには思い浮かばないものだ。天章院の時代や国を超えた人を愛する人間性の現われといえよう。
江戸幕府崩壊のあと、勝海舟は天璋院を姉と称して2人でいろいろ東京の街に繰り出し遊んでいたようだがあの勝海舟が天璋院を「女性であるが尊敬できる人」と述べているし、16代家達は「もし徳川に天璋院なかりせば家は瓦解の際、滅亡して果てただろう」と言っている。
1883年に死去。享年48歳。亡くなった際、手元に残っていたお金はわずか3円(現在の価値で6万円)であったという。
まことに薩摩女の面目躍如といえよう
少し顔はいかついが、天璋院は日本女性の鑑であり「サムライの心意気」まさにハンサムウーマンである。


12. 小倉昌男 当たり前を疑え 13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣 14. 吉田松陰 現実を掴め 01. 土光敏夫 無私の心 02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力 03. 上杉鷹山 背面の恐怖 04. 西郷 隆盛 敬天愛人 05. 広田弘毅 自ら計らぬ人 06. チャーチル 英雄を支えた内助の功 07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと 08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人 09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー 10. 孔子 70にして矩をこえず 11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
目次
01. 土光敏夫 無私の心
02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力
03. 上杉鷹山 背面の恐怖
04. 西郷 隆盛 敬天愛人
05. 広田弘毅 自ら計らぬ人
06. チャーチル 英雄を支えた内助の功
07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと
08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人
09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー
10. 孔子 70にして矩をこえず
11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
12. 小倉昌男 当たり前を疑え
13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣
14. 吉田松陰 現実を掴め
15. キングスレイ・ウォード 人生に真摯たれ
16. 本田宗一郎 押し寄せる感情と人間尊重
17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力
18. ヴィクトール・E・フランクル 生き抜こうという勇気
19. 坂本龍馬 謙虚さゆえの自己変革
20. 浜口雄幸 男子の本懐
21. 天璋院篤姫 あなどるべからざる女性
22. 新渡戸稲造 正しいことをする人
23. セーラ・マリ・カミング 交渉力とは粘り強さ
24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない
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