佐々木常夫 オフィシャルWEBサイト


コラム トップへ戻る


こんなリーダーになりたい

05. 広田弘毅 自ら計らぬ人


城山三郎の「落日燃ゆ」(新潮文庫)を読んで心打たれない人はいまい。
最近の日本の首相の志の低さを見るにつけ、歴代首相の中で広田弘毅ほど国の行く末を思い、国民のことを考え、自らの命を投げ出したリーダーはいなかったのではないかと思い読みながら鳥肌が立つほどの感動を覚えた。
城山は広田の一生を感情を交えずに淡々と描いているがその広田と好対照として取り上げているのが外務省で同期の吉田茂である。
広田は徹底して「自ら計らぬ人」だったが吉田は「自ら計る人」であった。
そうした二人の生き方の差がその後の日本をどう変え、二人の人生がどう変わったか、興味深いものがある。
広田は福岡県の貧しい石屋の長男として生まれた。父の徳平は高等小学校を終えたら石屋を継がせるつもりでいたが、息子の出来がよく周囲の奨めもあって修猷館、一高、そして東大へと進むことになる。
この間、広田は勉強するだけではなく自分の意志で、禅寺に座禅に通い、町の柔道場にも出かけ、さらに玄洋社で論語を中心とする漢学や漢詩の講義を聴いている。
修猷館では109名中2番だったし東大にも入り外交官試験にも受かったのだから相当な秀才である。
彼が普通の秀才と違うのは、己を磨こうとして勉強以外の多くのことに時間を使い、常に小さいころから日本のためになろうという大きな志を持ち続けたことであり、これからは軍人ばかりでは日本は守れない、国のために優れた外交官になろうと考えたことだ。
広田は中学卒業と同時に名を丈太郎から弘毅に改めているが、これは好きな論語の一節「士は弘毅ならざるべからず」からの命名であり、子どものときから論語を学ぶことで強い覚悟を固めていったことがわかる。
当時の外務省は幣原喜重郎の時代であった。幣原は家柄を重んじ、英語は大の得意で語学の達者な「有能者」には目をかけるがそれ以外の人間には無関心であった。
貧乏な家の出で、英語があまり上手くない広田は冷や飯を食わされることが多かった。
事実、昭和2年にはオランダに左遷される。
そのとき広田は「風車、風の吹くまで昼寝かな」と詠っている。
広田には名門と栄誉と社交に代表される外交官生活は親しめなかったし、それがどうしたという気持ちがいつもあった。しかし、オランダに左遷されても腐ることなく、かつてこの国が小国ながら世界を制覇した理由を探ったり、小国として生きる知恵をこれからの日本のために学んだ。
小国から見れば列強がよくわかるということだがこの左遷の時期に学んだことが後々活きてくる。まさに左遷を左遷にするのは己であるといえよう。
広田は夥しいほどの書籍を読んだが一日の最後は常に論語に目を通すことが習慣だったという。
西郷隆盛の座右の書が佐藤一斎の「言志四録」であったように広田の座右の書は「論語」であったのだ。
広田の同期に吉田茂がいた。
吉田は土佐自由民権運動の志士竹内綱の庶子だが、横浜の貿易商の養子となり経済的不安はない。その上、内大臣牧野伸顕の娘を妻に迎えている。牧野は大久保利通の次男である。
このような後ろ盾を持つ吉田は生来の性格もあって、何かにつけて「自ら計ろう」とする。
これに対して広田は元々世俗的な欲望の薄かった性格に加え敬慕する先輩山座円次郎や無二の親友平田知夫の突然の死などがあり、ますます人生に淡白になっていく。
しかし「自ら計らぬ」広田のスタンスが吉田より一歩も二歩も早くその地位を押し上げ、また逆に「自ら計らぬ」ことが東京裁判での悲劇に繋がる。
「風車、風の吹くまで昼寝かな」と一句詠んだが軍部の台頭と独断専行は広田にいつまでも昼寝を許さなかった。
広田が駐ソ大使時代に満州事変が起こり、上海事変、満州国宣言、国際連盟脱退と急転回していく。
こうした中、外交を舵取りできるのはやはり広田だということになり「計らぬ人」のはずが外相に就任し軍部主導の政治を文民主導に変えていく。
小さいころからの精進と左遷による長い昼寝の間に蓄えた見識が活きてきて、広田は次第に本領を発揮していく。
昭和10年の国会答弁では「私の在任中に戦争は断じてないことを確信している」と強い信念を述べているが大げさなことは極力控える広田にとっては珍しく熱の入った真剣な言葉であったし、命にかけてもという覚悟の表明でもあった。
しかし軍部の横暴はすさまじく広田にとって「外交の相手は軍部」とまで言わしめる現実に直面し苦悩する。
広田の戦争を避けようとする必死の工作も実を結ばず、最終的には戦争に突入してしまい日本は多大の犠牲を強いられることになる。
戦後の東京裁判でその戦争責任を追及されることになるが自分の立場を有利にしようと他人に泥をかぶせる者がいるなかで、広田は裁判を通じて終始自己弁護せずむしろ有罪になることで務めを果たそうとしたようだ。
検事団は文官から犠牲者を求めている、そうならば元総理で3度の外相を務めている自分ではないか、そう考え、広田は裁判の中で最初は弁護士を断り、「無罪」を主張することを拒否した。自分には多少なりとも戦争の責任があるという理由からだ。
このような覚悟の行動と自ら計らぬ性格により、最終的には文官としてはただ一人、絞首刑の判決を受けることになる。
平和を願い獅子奮迅の努力をしてきた男がその努力を踏みにじり戦争に駆り立てた軍人たちと同じ刑を受けるとは何という皮肉な運命なのか。
キーナン首席検事は「なんとバカげた判決か」と嘆いたという。
しかし広田は不満めいたことは、一切口外せず刑に服した。
先の大戦では日本人だけで250万人が亡くなっている。これほど多くの犠牲を払った戦争の責任がどこにあったのか、私たちは正しく知る必要がある。東京裁判で裁かれたからもうそれでいいというわけにはいかない。少なくともなんとしてでも戦争を止めなくてはならないと日夜、知恵を絞り命をかけて戦った広田の汚名は晴らさなくてはなるまい。
「落日燃ゆ」を読みながら日本を戦争に引きずり込んでいった人たちや不当な東京裁判に強い憤りが湧き上がると共に、最後まで何も語らず絞首台の露と消えた広田の人間としての偉大さに胸が熱くなる。
揺ぎない信念をもっていた広田だが、家族には人間味溢れる豊かな愛情で接していた。
名門の子女と結婚し閨閥の力で出世する外交官は少なくない中、広田は貧しい家の娘、静子と結婚した。二人は死ぬまで共に愛し合い尊敬しあった仲であった。
静子は夫の覚悟を察知し夫の刑を待たずに服毒自殺をしている。夫の未練を少しでも軽くしておくためにも自分が先に行って待っているべきだと思ったのだ。
妻の死を知った広田はその後も家族宛の手紙は最後まで静子宛であったという。
子どもたちも父を心から尊敬し家族の結束も強かった。
このような広田の生き様には「人は正しいことをしなくてはならない」「戦争などで殺し合いをしてはならない」「しかるべき人間は命を投げ出してその責務を果たすべきだ」といった自らの中に積み上げてきた揺るがぬ信念があり、そこが現在の政治の指導者と違っていたのだろう。


目次
01. 土光敏夫 無私の心
02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力
03. 上杉鷹山 背面の恐怖
04. 西郷 隆盛 敬天愛人
05. 広田弘毅 自ら計らぬ人
06. チャーチル 英雄を支えた内助の功
07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと
08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人
09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー
10. 孔子 70にして矩をこえず
11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
12. 小倉昌男 当たり前を疑え
13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣
14. 吉田松陰 現実を掴め
15. キングスレイ・ウォード 人生に真摯たれ
16. 本田宗一郎 押し寄せる感情と人間尊重
17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力
18. ヴィクトール・E・フランクル 生き抜こうという勇気
19. 坂本龍馬 謙虚さゆえの自己変革
20. 浜口雄幸 男子の本懐
21. 天璋院篤姫 あなどるべからざる女性
22. 新渡戸稲造 正しいことをする人
23. セーラ・マリ・カミング 交渉力とは粘り強さ
24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない
佐々木のリーダー論

こんなリーダーになりたい