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こんなリーダーになりたい

20. 浜口雄幸 男子の本懐


1929年(昭和4年)田中儀一内閣が張作霖爆殺事件の責めで異例な形で総辞職した後を受けて、首相に就任した立憲民政党の浜口雄幸は政治空白は許されないとして電光石火、わずか1日で組閣を行った。
難問山積みの内閣であったがその風貌から「ライオン宰相」と呼ばれていた浜口はその名にふさわしい勢いで日本の政治のかじ取りを断行していった。
この内閣の喫緊の課題は財政の再建と経済の再興、そして軍縮の実行であった。
経済問題では、なんといっても最大の課題は12年間、8代の内閣が手つかずであった金解禁であった。
第2次大戦の勃発で経済が混乱し先行きの不安に備え、各国はとりあえず国内に金を温存しようとして金輸出禁止を行っていた。
ある国で輸出超過が続けば、経済代金として外国から金が流れ込む→金の保有量が増大→通貨増発→国内物価上昇→輸出減→輸入増→輸出入がバランス という循環が生ずる。
即ち各国が金本位制をとれば、各国経済が世界経済と有機的に結ばれ、国内物価と国際物価が連動し、自動的に国際経済のバランスが取れるということになる。金本位制は火の利用と並ぶ人類の英知ともいわれた。
1922年ゼニアで開かれた国際会議で、金本位制復帰が決裁されぞくぞく解禁に向かった。1928年のフランスでほとんどの国が終わり、残すはスペインと日本だけとなり、安定装置を持たない日本は通貨不安定国で為替相場は国内外の思惑で乱高下する。為替差益を狙う投機筋が暗躍し地道な生産や貿易に従事するものは痛手を受け、倒産するなど経済は低迷していた。
しかし金解禁とは金の輸出禁止措置を解除し金の国外流出を許すことであるため、金が国外に出ないような政策、即ち大胆なデフレ政策が必要で、そのため財政の緊縮や軍縮などを断行し、国内物価も引き下げておく必要があり、多くの人々に痛みが生ずる不人気な政策である。
政治家の売り物は常に好景気で古来「デフレ政策を行い命を全うした政治家はいない」ともいわれていた。ましてやこのときの最大の難敵は軍部と右翼であった。
しかし浜口は国の経済再建と軍縮実現のために金解禁に命を懸けた。
6人の子どもと妻に「すでに決死だから何事が起こって中途で倒れるようなことがあっても、もとより男子として本懐である」と説き、妻の夏子に家の財産を説明し、財産目録や関係書類を渡したがこのとき浜口はおそらく自分は無事では済まないだろうと覚悟していたのだろう。
この一大事を実行するに当たり大蔵大臣に元日銀総裁の井上準之助を選んだ。
浜口にしてみればこれを共に戦えるのは自分の知る限りでは井上しかいないと考えていた。手放しの解禁論者ではない井上ではあったが、浜口に会いその無私の思想と国のために命を捧げようという浜口の覚悟に打たれ共に命を懸けることを誓った。
この浜口という男は本当に変わった男である。
1870年(明治3年)、高知県長岡郡五台山の林業を営む水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。長兄とは16歳、次兄とは8歳も離れていたことや元々山村で友だちもいない環境の中で幼いころから孤独のことが多かったことが無口な浜口をますます寡黙な少年にした。
無口なうえに無趣味、遊ぶことが苦手、鎌倉に別荘はあるが行くのが面倒と考える。
浜口は自らを分析し、「1. 余は極めて平凡、しかし自らその本分と信ずるところに向かい全力を傾注し、ほとんど余事を顧みるだけの余裕がない。2. 余の生立の環境は余をして黙座瞑想に傾かしめた。3.余は無精―物臭太郎―なる性癖であるが、現代の青年は余りに多くの趣味道楽に耽っている」としている。
世間の一部からは浜口の趣味は政治だと言われたが、彼は「政治は趣味道楽ではない、政治ほど真剣なものはない。命を懸けてやるべきもの」と言っている。

浜口の最大の特長はその無欲さと左遷不遇の時期の長さである。大蔵省には入省したものの上司とぶつかりずっと日の当たらない部署を経験。そして専売局長となった。
そのとき半年間の洋行を勧められたが、高齢の義母に不安な思いをさせたくないという理由で断っている。
初代満鉄総裁を務めた後藤新平は、浜口の国会答弁に見る堂々たる見識と責任感で謹厳寡黙で惜しみない男と感じ、満鉄の理事に口説くが専売局長官として塩田整理の仕事を投げ出すわけにはいかないという理由で浜口は断った。当時満鉄の理事といえば中央官庁の次官以上のポストであり、俸給も10倍以上であったのにである。
明治41年、第2次桂内閣のときに後藤新平は逓信大臣で浜口に次官ポストを用意したがこれも断った。大蔵省では先が見えているのでこの話に乗った方がいいと誰もが思ったのにである。
浜口の熱意に負けてさすがの反対運動も収まり塩田整理は完了した。
大正3年大隈内閣の時、若槻礼次郎が大蔵大臣になり浜口を次官に起用した。入省以来左遷に続く左遷。地方回りと外局勤務。省内の主流を歩まずコースを外れた回り道ばかり。それが45歳で大蔵次官。浜口の人間としての大きさを見抜いていたのは後藤新平だけではなかった。見ている人は見ているということだろう。
その後、政治家志望であった浜口は高知県から選挙に打って出るが落選してしまう。
党事務員となり党の事務所に毎日通い、党の政策立案や運営に貢献した。
浜口にとってはこのような不遇は今更のことではなかった。
しかし浜口の染み入るような誠実さは深く知れ渡るようになる。渋沢栄一は東京市長に出るよう促すが浜口は憲政会が逆境にあるときに見捨てられないとして断っている。自分の利害よりも組織を考えるという今も当時も珍しい政治家であった。
そしてついに昭和4年憲政会の党首となり首相となる。
昭和5年の予算編成は金解禁に備え徹底的な緊縮予算の策定であった。経費は原則1割カット、陸海軍省予算は大幅に削減、公債は発行しない。そしてそれらの前提として金解禁を断行するが海外はこれを高く評価する。しかし軍部、右翼、枢密院を中心に猛反発が生じる。
更に経費削減の中で、特に機密費を3割削減したことは世の大きな評価に繋がった。
東京朝日などは「削りとられた暗い政治の費用。記録される浜口内閣の善政。機密費3割削減の英断」と4段抜きの記事にした。
その当時の世間の政治家への評価は決して高くはなかったが、政治を大切だと信じているものとしてそのレベルを高めたいという浜口の念願でもあった。
そして断固としてやり抜くという行動への反発があり、東京駅で3メートルの至近距離からピストルで狙撃される。駆けつけた医師の大丈夫ですかという問いに浜口は「男子の本懐です」と答えている。
何度かの手術で命は取り留めたが、その後悪化し翌年の8月に亡くなる。
日比谷公園での葬儀、久我山から日比谷までの沿道、別れを惜しむ人垣で霊柩車はスピードを10キロに落とさなくてはならなかったという。党葬ではあったがおよそ2000人の出席者となりほとんど国民葬と言えた。
式の終わった後、午後1時、一般の告別式に移ったが数万の民衆が殺到し老人子どもの悲鳴が上がるというありさまであった。予定していた警備陣では足らず、丸の内署や警視庁からの応援を呼ばなくてはならなかったという。
今となっては果たして浜口が行ったデフレ政策や金解禁が正しかったのかは歴史の検証が必要だろう。しかし、政治や経済を自分の目で見、人の意見を深く聞き、予断なく決め、決めたら命を懸けてでもー実際彼は命を失ったがーという政治家が日本の歴史の中にいたことを知るとき私は救われるような気がする。


12. 小倉昌男 当たり前を疑え 13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣 14. 吉田松陰 現実を掴め 01. 土光敏夫 無私の心 02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力 03. 上杉鷹山 背面の恐怖 04. 西郷 隆盛 敬天愛人 05. 広田弘毅 自ら計らぬ人 06. チャーチル 英雄を支えた内助の功 07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと 08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人 09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー 10. 孔子 70にして矩をこえず 11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
目次
01. 土光敏夫 無私の心
02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力
03. 上杉鷹山 背面の恐怖
04. 西郷 隆盛 敬天愛人
05. 広田弘毅 自ら計らぬ人
06. チャーチル 英雄を支えた内助の功
07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと
08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人
09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー
10. 孔子 70にして矩をこえず
11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
12. 小倉昌男 当たり前を疑え
13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣
14. 吉田松陰 現実を掴め
15. キングスレイ・ウォード 人生に真摯たれ
16. 本田宗一郎 押し寄せる感情と人間尊重
17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力
18. ヴィクトール・E・フランクル 生き抜こうという勇気
19. 坂本龍馬 謙虚さゆえの自己変革
20. 浜口雄幸 男子の本懐
21. 天璋院篤姫 あなどるべからざる女性
22. 新渡戸稲造 正しいことをする人
23. セーラ・マリ・カミング 交渉力とは粘り強さ
24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない
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