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こんなリーダーになりたい

07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと


毛利元就は安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主であったが、中国地方のほぼ全域を支配下に置くまで勢力を拡大し、その優れた智謀と家臣から慕われた人柄で後世、戦国時代最高の知将と評されている。
1467年、毛利弘元の次男として生まれたものの、家臣の井上元盛によって所領を横領され城から追い出されるなど、多くの苦難を強いられた末、家督を継ぐが、西の大国、大内氏と北東の大国、尼子氏にはさまれ、生き残りのため、小国ならではの様々な駆け引きを駆使することになる。
元就が腐心したのは、武力を用いず、極力平和的解決を優先したことだ。
即ち、長年の宿敵であった宍戸氏には娘を嫁がせ、その関係を修復したり、近隣の雄、小早川・吉川にそれぞれ三男、次男を養子に出すことで実力両川家を支配下に置く。また、大内義弘の後を襲った陶陸房に対しても、謀略で内部対立を起こさせ相手を混乱に陥れる。この敵に対する内部分裂戦略は元就の得意とするところで、幾度もこの作戦を使っては、手ごわい敵を弱体化させてきた。
このため元就は「謀神」とも「謀将」とも呼ばれている。
いったん戦いとなっても、例えば東の大国、尼子氏との最終的な戦いである月山富田城攻撃においては、当初は相手兵士の降伏を認めず、投降した者を見せしめに殺すことで、敵兵を城中に押し込めさせ、城内の食糧を早々に消費させた。そして食料が尽きたころを見計らって、城の前で粥を炊き出して、城内兵士の降伏を誘ったところ、尼子兵士は続々と降伏し、無用な血を流さずに勝利できた。
元就の基本的スタンスは、まず置かれている現実を直視し、さまざまな方策を考慮し、その状況に合わせた最も効果的な策を選ぶこと、特に、無用な殺し合いは避け、戦いより平和的手段を優先させたことだ。
元就は幼いころから苦労人であったし、己の所領は小さく武力での局面打開は難しいため、極力、調略や計略による勢力拡大を目指したが、その根底には人の命を大事にし、戦うにしても、犠牲を最小限にするということを常に考え行動した。
戦略とは「戦いを略す」と書く。元就の描く未来は、大内氏、尼子氏という大国を破り中国地方の覇者になることだ。その目的のためにできるだけ「戦いを略し」無駄な血を流さないようにした。
元就はそれを可能にするのは家臣の知恵だけでは難しいと考え、中国の兵法書を勉強したが、特に「六韜」「三略」を真剣に読んだという。「六韜」とは中国古代周の軍師、太公望が撰し、「三略」は黄石公が撰したものでこれらの戦略本を、元就はむさぼるように繰り返し読んだ。加えて、人間の心理を分析しつつ、適切な対応策を打つべく「韓非子」も学んだ。この本は絶対的な人間不信がベースとなっており、韓非は人間の行動には常に二面性があることを説いているが、元就にとってこれらの人間の真相を深く突いた書物がどれほど役に立ったか知れない。
元就は冷静な観察者であり分析者、問題の提起者であったが、生涯にわたり自己鍛錬に努め、他人や書物から学ぼうとする謙虚さがあった。
それと、いきなり王道を行う王者にはなれないが、いまの戦国状況をみればなにかを志すものはまず覇者にならねばならぬ。そのためにはこれらの書物にあるような覇道も致し方ない。効果的な覇道を行い、力を蓄えたら王道を行うという冷静な決意を秘めていたようだ。
さらに、元就の優れていたところは、常に自分ひとりだけの力に頼るのではなく、利害関係者との協働を尊んだことだ。
人間一人の力には限界があると考え、一族の結束による組織強化に努めた。特に一本の矢は折れても三本の矢は折れないといういわゆる「三本の矢」の逸話は有名だが、3人の息子たちは当然のこととして、関係者全員の連携、協力、融和を説き、かつ実行してきた。
特に、それぞれの土地の自治を実現しているのは国人衆であり地侍の力であることを肝に銘じ、重臣を含めた集団指導体制を重視すると共に、臣下についても、完全に従わせるだけではなく、それぞれの独自性を尊重するという、今でいえばダイバーシティ経営に務めた。
ダイバーシティとは多様性の受容ということだが、さまざまな異なった考え方や生き方、境遇の異なる人の立場を受け入れ、多くの関係者の力を結集することで、組織を強化する経営戦略である。このことは元就の「武力によらず平和的解決を優先する」という思想にも通じる。
つまり、相手の立場を思いやり、他人も自分も共にWIN-WINの関係を築こうと努力した。
吉田郡山城の増改築の際は、人柱を止め、代わりに百万一心と彫った石碑を埋めるなど、無益な殺生を止めさせ、ことあるごとに領民や一族の団結を説いたというが、そのことは元就が理想とした国人領主による集団指導体制の延長戦上にある考え方である。
領民からの人望は厚く、吉田郡山城の戦いでは、兵士2400と共に領民8000人もが、籠城したという。この話は周辺国にも伝わり、その後の領国支配に大きく影響した。
常に部下の置かれた状況に応じた対応を考えていたことから、元就に対し反抗したり裏切ったりする家臣が少なく、人望があった。信長は「自分の部下はなにをしでかすかわからない、それにひきかえ元就のいる毛利家では違う」と羨ましがったというが、それは家臣の事情を考慮しない信長の性格故であり自業自得というものだ。
私も30代前半に、潰れかかった会社に出向したことがある。毎月大きな赤字を計上し、早急に再建策を作成し実行する必要があった。そのとき経営のトップ層には当然、その会社に派遣された少数の東レの人間が占めることになったが、経営の方針や施策をいくらトップが示しても、大多数を占めるその会社の社員が自分の問題としてその気になって行動しなければ成果は上がらない。
私が心がけたのは、社員一人一人が自分の問題として経営を考え行動していくことだった。
問題点の摘出、その対応策を社員自らに提案してもらい、会社の問題を自らの問題として考えてもらうやり方をとった。その会社は1年半で黒字を達成したが、組織と言うのは、それを構成する人間の納得と協力があってはじめて実効あるものになる。
元就は、常に武略、計略、調略を駆使したが、それは最終的な大きなミッションのためであって、根は優しく、人の話を聴き、臣下から慕われる存在であった。
72歳でその戦いに明け暮れた生涯を閉じたが、仮に元就が関が原の戦いまで生きていたらその後の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
元就の一生を振り返るとリーダーの姿というのは、その生きた時代、生きた環境によって大きく変わるということを感じる


目次
01. 土光敏夫 無私の心
02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力
03. 上杉鷹山 背面の恐怖
04. 西郷 隆盛 敬天愛人
05. 広田弘毅 自ら計らぬ人
06. チャーチル 英雄を支えた内助の功
07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと
08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人
09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー
10. 孔子 70にして矩をこえず
11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
12. 小倉昌男 当たり前を疑え
13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣
14. 吉田松陰 現実を掴め
15. キングスレイ・ウォード 人生に真摯たれ
16. 本田宗一郎 押し寄せる感情と人間尊重
17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力
18. ヴィクトール・E・フランクル 生き抜こうという勇気
19. 坂本龍馬 謙虚さゆえの自己変革
20. 浜口雄幸 男子の本懐
21. 天璋院篤姫 あなどるべからざる女性
22. 新渡戸稲造 正しいことをする人
23. セーラ・マリ・カミング 交渉力とは粘り強さ
24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない
佐々木のリーダー論

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