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こんなリーダーになりたい

14. 吉田松陰 現実を掴め


山口県では「先生」と呼ぶ対象は、吉田松陰のみという。
また、萩の明倫小学校では今でも日々、松陰の言葉を子どもたちに暗唱させているという。
長州藩は幕末・明治維新以来、数多くの英傑を輩出してきたが、その中にあって吉田松陰は別格扱いで、真の先生と位置づけられている。
松陰は、天保元年(1830年)に長州藩士・杉百合之助の二男として生まれ、叔父の吉田家に養子となり、もう一人の叔父、玉木文之進によって勉学を厳しく叩き込まれた。
すでに10歳で藩校・明倫館の兵学教授として出仕、ときの藩主・毛利慶親の目に留まり、藩の期待を担いながら、その才能を伸ばしていく。
彼は攘夷論者ではあったが、安政元年(1854年)アメリカのペリー来航のときは、外国を排斥するには、まず相手を知らなくてはならないという考えから、アメリカ行きを決意する。金子重輔と共に、伊豆下田に停泊中のポーパタン号に乗船して密航を企てるも、幕府との条約締結を急ぐペリーに拒否される。
乗船したとき、乗り捨てた小舟の中に、師、佐久間象山の手紙などがあり、いずれ密航が露見すると考え、舟が発見される前にと下田奉行所に自首して出る。鎖国であった当時は、密航は大罪であった。その後、長州に引き渡され、野山獄に幽囚される。
野山獄中では3年間で1500冊の本を読んだというが、あの書物が少ない時代に、年間500冊とはすさまじいともいう数であり、あくなき知識欲のあった人物だったということだろう。
野山獄を出た後、自宅で松下村塾を開き、多くの人材を育成する。
安政5年(1858年)幕府が勅許ないまま、日米修交通商条約を結ぶと、これを激しく批判したため、安政の大獄で、29歳の若さで斬刑に処される。
わずか3年ほどの間に、長州・萩の周辺の有為な人材を教育し、その後、歴史に残る人物、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤博文、山縣有朋など、おびただしい英傑を生み出した比類なき教育者であり、その思想は明治維新の方向性を決めたともいえる。
幕末という時代の趨勢が、多くの人材を一気に求めたということもあったが、それ以上に松陰には本質的な人間的魅力と、人の良さを認め、伸ばすという特別な人格と才能があったということだ。
松陰が比類なきリーダーであったという理由は大きく二つある。
一つは、会った人を引き付け、強い影響を与え、その人の潜在能力を引き出す人間力があったことである。
松陰は、純粋無垢な性格で、どんな人からでも学ぶ姿勢を貫き、常に人間を平等に扱い、その発するオーラは他を圧倒した。
松陰はそれぞれ違う人間能力の相乗効果――人間の掛け算が大事だと考え、そのパワーが幕府を倒し明治維新を実現した。
さらに、彼は「ぼくは君たちの師ではない、同志だ、共に学びあおう」と常に謙虚で、その真摯な姿に周りの人たちが引き付けられた。
彼は激情家と言われる面もあるが、実際には極めて冷静で緻密な行動をとっており、時間活用術にも優れていた。
エネルギーのロスを絶対に無駄とは思わない勤勉家でもあったが、なんといっても人を見る目の確かさ、人間洞察力は一流であった。
松陰の主張は「天下は幕府のものではなく、天下は天朝のものであり、天下の天下」とし、のちには「朝廷も幕府も大名も必要ない。いま国難を解決できる力を持っているのは日本の民衆だ」と述べているが、あの幕末において珍しくも人間平等思想を提起していた。

先週は、リーダーとして松陰の優れたところの一つは、その人を引き付け、強い影響を与え、人の潜在能力を引き出す人間力であると書いた。
松陰のもう一つ優れたところは、単なる教育者・思想家ではなく、徹底した実学者・実践者であったことだ。
つまり知識を得るだけでは何の役にも立たないとし、まず志を立てること、そしてそれを実行すること、つまり「立志と実行」が、松陰の学問に対する基本姿勢であった。
それまで主流であった朱子学に、知行合一という陽明学を取り入れたのだ。
そのため「経済と情報」を重視し、算術は士農工商いかなる人にとっても、必要なものであるし、世間のことでそろばん珠を外れたことは全くないという考えを持っていた。
「飛耳長目録(ひじちょうもうろく)」というメモを作り「いつも耳をピンと立て目を横に大きく開いて現実を見ること」今でいうと新聞の切り抜き集をテキストとして活用し学問につなげた。
自ら東北・九州を歩き回ったが、この時代に松陰ほど、全国あちこち歩き回った人間はいない。幽囚された後では、周りの人たちや門人などから多くの情報を収集した。
松陰は調査魔であり情報魔であったが、なんでも見てやろうという気持ちが強く、日常の出来事にさえ、異常な関心・好奇心を持っていた。
現実の生活に苦しんでいる人たちに役立たなければ、学問の意味はないと考え、常に実際に役立つ実学を追求した。
私はリーダーに求められる要諦は、決断力や大局観などの前に「現実把握力」であると考えている。今何が起こっているのか、何が問題なのか、それはどうしてか、といったことだ。その現実を正しく把握することで正しい対応策、正しい思想が出てくる。
私は以前、身を置いた会社の中で、20いくつもの赤字の会社や事業を黒字にしてきたが、事業再構築するとき、最も肝要なことは、何が現場で起こっているのか、何が問題なのか、何が赤字の原因なのかを正しく掴むことである。その現実さえ掴めれば、正しい対応策が現れる。
松陰は、常に社会で起こっている問題を政治的立場で考える教育に徹した。
松陰が人間として優れているところは、明解な思想があったことだけではなく、ペリーにアメリカ行きを直談判したような行動力があったことである。
それと松陰がリーダーとして特筆すべきは、己の思想に強い信念を持っていて、意見書ひとつ出すにしても、常に死を覚悟して臨んでいたことだ。
松陰は老中暗殺容疑が原因で江戸送りされたものの、幕府は松陰が意図した暗殺事件は、ほとんど実態のないもので、死罪を言い渡すつもりはなかった。
しかし本人が幕府の政策に異議を唱え、自分は本気で、老中を殺そうとしたと主張したために、井伊直弼の逆鱗に触れ、死罪となってしまった。
彼が刑の執行直前の2日間で書いたといわれる「留魂録」の冒頭にある和歌1首は、松陰の面目躍如たるものだ。
「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
松陰は自分の死を一つの贈り物にして、門人たちに決起を促したと思われる。
そして留魂録の第8章には「私は30歳で生を終えるが後悔はない。人にはそれにふさわしい春夏秋冬がある。10歳にして死ぬ者には、その10歳の中におのずから四季がある。20歳には20歳の四季がある。五十、百歳にも四季が備わり、ふさわしい実を結ぶ。私も花咲き実りを迎えた。私のささやかな真心を憐み、受け継いでやろうとする人がいるなら喜ばしい」とある。
現代文に訳すと、これらの文章の凄味にやや欠けるが、私は「留魂録」は死に直面した人間が悟り得た死生観を語る日本史上最高の遺言書だと思っている。


目次
01. 土光敏夫 無私の心
02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力
03. 上杉鷹山 背面の恐怖
04. 西郷 隆盛 敬天愛人
05. 広田弘毅 自ら計らぬ人
06. チャーチル 英雄を支えた内助の功
07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと
08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人
09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー
10. 孔子 70にして矩をこえず
11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
12. 小倉昌男 当たり前を疑え
13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣
14. 吉田松陰 現実を掴め
15. キングスレイ・ウォード 人生に真摯たれ
16. 本田宗一郎 押し寄せる感情と人間尊重
17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力
18. ヴィクトール・E・フランクル 生き抜こうという勇気
19. 坂本龍馬 謙虚さゆえの自己変革
20. 浜口雄幸 男子の本懐
21. 天璋院篤姫 あなどるべからざる女性
22. 新渡戸稲造 正しいことをする人
23. セーラ・マリ・カミング 交渉力とは粘り強さ
24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない
佐々木のリーダー論

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