佐々木常夫流・7つの習慣(その7)
2015.8.18
過ちを次にどう活かすかで
自分の主体性が問われる
■過去はやり直せない。だから未来に目を向ける
人は不完全な生き物である。「原則中心の生き方がしたい」、「主体性を持って生きていきたい」と思っていたとしても、時には原則から外れた行動したり、受け身の生き方をしてしまうことがある。
もちろんそういう行動や生き方をしたとしても、必ずしも常に社会的に悪い結果がもたらされるとは限らない。たとえば商取引で不正を働くのは、明らかに原則から外れた行為であるが、社会的な結果はその不正が発覚するかどうかによって変わってきます。発覚しなければ利益を得ることができ、発覚すれば何らかの制裁を受けることになる。
ただしコヴィー氏は、「この場合、発覚するかどうかで社会的な結果は違ってくるだろうが、この選択が人格に及ぼす自然の結果はすでに決まっている」(『完訳
7つの習慣 人格主義の回復』P108) と言う。つまり社会的な結果は別として、確実に自分の人格を貶める行為であるということ。社会的な結果がどうこうではなく、不正を働くという選択をしてしまったこと自体が過ちなのだ。
しかし「後悔先に立たず」というように、原則から外れた行動や受け身の生き方をしてしまったことを後になっていくら悔いたとしても、今さらやり直すことはできない。「過去の出来事を悔いてばかりいる人にとって、主体的であるために必要なのは、過去の間違いは影響の輪の外にあることに気づくことだ。過ぎてしまったことを呼び戻ることはできないし、やり直すこともできない。また、生じた結果をコントロールすることもできない」(『完訳
7つの習慣 人格主義の回復』P109)。 前項でも述べたように、自分がコントロールすることができないことについては、きっぱりとあきらめるしかない。
その代わり私たちにできるのは、間違いを起こしたことをはっきりと認め、「なぜ自分は間違った判断や行動をしてしまったのか」、「本当はどんな判断や行動をするべきだったのか」ということを強い思いを持って振り返ることである。そして「次は絶対に同じ過ちを繰り返さないようにしよう」と強く自分に言い聞かせる。
「すでに自分がやってしまったこと」は影響の輪の外にあるが、これから「自分がやろうとしていること」は影響の輪の中にある。だからすでに影響の輪の外にあることについてあれこれと思い悩むのはなく、影響の輪の中にあることに自分の意識を注ぐのである。
■過ちを認めないことは、自分自身をも傷つける行為である
最悪なのは、過ちを犯してしまったときでも、その過ちを自分の中で認めようとしないことである。
「過ちを認めず、行動を正さず、そこから何も学ぼうとしなければ、失敗はまったく異なる様相を帯びてくる。過ちをごまかし、正当化し、もっともらしい言い訳をして自分にも他者にも嘘をつくことになる。一度目の過ちを取り繕うという二度目の過ちは、さらに一度目の失敗を増幅させ、必要以上に重大なものになり、自分自身にさらに深い傷を負わせることになる」(『完訳
7つの習慣 人格主義の回復』P109)
過ちを犯したときに、たまたまその過ちが大きな問題にならなかったといって、しっかりと反省することを怠ってしまったら、その後もその人は似たような場面でまた同じ過ちを犯すことになる。するとその人はずっと原則中心から外れた生き方をすることになる。それはコヴィー氏が言うように、他者だけではなく、自分自身をも傷つける生き方である。
「経験はすべての教師である」と言った人がいる。でも私は、人にとって一番大切なのは経験ではないと思っている。一番大切なのは、自分の経験をしっかりと内省すること。自分の判断や行為が正しいものであったかどうか、原理原則に照らし合わせて分析をする。そして正しければ、その判断や行為を今後も継続し、間違っていれば修正を図る。これを繰り返すことによって、人は経験を通じて見識を高めていくことができる。ただやみくもに経験を積めばいいというわけではないのだ。
とはいえ、自分の過ちを直視するというのはつらいもの。私だって明らかに過ちを犯してしまったときには、「酒でも飲んで忘れてしまいたい」という気持ちになる。そんなときはちょっとぐらい逃げたっていいいと思う。けれどもいつまでも逃げているわけにはいかない。精神的に少し落ち着いたら、しっかりと振り返り、自分の失敗を強く反省する時間を持つことが大事である。
主体性を持った人とは、過去の失敗を未来の自分の生き方にちゃんと活かすことができる人だと思う。
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