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管理職の心構え
 
(その9)時機は気長に待て

2023.2.9

「堅忍持久」の力を養う
渋沢が明治の英傑たちに抜きん出て持っていたものの一つに、「耐えて待つ力」が挙げられます。
思い通りにいかない時、グッとこらえて冷静になる。感情や勢いに流されないよう、自らを律して我慢強く持ちこたえる。これを徹底できたのは、明治に優秀なリーダー多しといえど、渋沢の右に出る者はいないとさえ感じます。
むろん大久保利通にしても西郷隆盛にしても、忍耐の時代を経ています。でも、大久保は強引さが裏目に出て暗殺され、西郷は感情に流されたがゆえに自決することになってしまいました。
そのことを思うと、不運に見舞われながらもしたたかに生き延び、近代日本の経済の土台を築きあげるに至った渋沢は、誰よりも「耐えて待つ力」が旺盛だったのではないかと思わずにはいられないのです。
渋沢は「世の中の仕事は力こぶばかりでいくものじゃない。堅忍持久の力を養って次第に進まなければならない」と説いていますが、この堅忍持久の力をいかに養うかが、仕事をする上でも大変重要です。
もっとも、耐えて待つと言っても、単に歯を食いしばって辛い状況を耐えろという意味ではありません。泰然と構え、来たるべき時機を待つ。堅忍持久の力を養うとは、チャンスを気長に待つ精神力を養うことと言ってもいいかもしれません。
渋沢は『論語と算盤』の中で次のような言葉を残しています。
世の中のことは「こうすれば必ずこうなる」という因果関係がある。それを無視して、突然横から形勢を変えようとしても、因果関係はすぐに断ち切ることはできない。しかるべき時がこない限り、成り行きを変えることは決してできない。
だから人が世の中を渡っていくためには、成り行きを広く眺めつつ、気長にチャンスが来る心がけを忘れないようにしなければならない。
そのための忍耐を養いなさいと、渋沢は言うわけです。

天狗党の末路から「待つことの重要性」を学ぶ
 何度か述べたように、渋沢の人生は不運の連続です。
 最初に企てた倒幕計画の失敗、慶喜が将軍職についたことによる攘夷の挫折、そして大政奉還によって朝敵扱いされる不遇。おそらく、どれもが忍耐を強いられる出来事ばかりだったに違いありませんが、そうした不運にありながらも渋沢が忍耐して待つことの重要性を身にしみて知ったのは、自らの倒幕計画の失敗直後に目の当たりにした、天狗党の挙兵の失敗ではなかったかと思います。
天狗党とは、水戸藩で活躍した尊王攘夷の一大勢力です。天狗党は開国を進める幕府に抵抗して、水戸藩の元家老・武田耕雲斎と藤田小四郎をリーダーに、茨城県の筑波山で兵を挙げます。
天狗党は水戸藩士だけでなく、志を同じくする尊王攘夷の農民や藩士らを巻き込み、数百の勢力で京都を目指します。水戸藩主の息子である慶喜を通して、朝廷に尊王攘夷を訴え出ようとしたのです。
しかし、この目論見は失敗に終わります。美濃や越前の雪山越えに苦しめられた上に、頼みにしていた慶喜がなんと天狗党追討軍の指揮をとることがわかったからです。
結局、天狗党は加賀藩に捕らえられ、謀反の罪で全員刑に処されます。しかもそのうち何人かは、暗く冷たい倉庫に押し込められ、寒さと飢えで病死したと言われます。渋沢はこの天狗党の末路を目の当たりにし、虚しさを覚えると同時に、待つことの堪忍を知らず、血気盛んに騒動を起こす性急さに強い疑問を抱きます。
 
反省と自戒の念を込めて、渋沢は天狗党の悲劇から耐えて待つことの重要性を痛感したというわけです。
渋沢はのちに「自分は低い身分で終わるのが嫌で武士になろうと躍起になった。武士になって政治をやりたいと大望を抱いた。だが、これが原因であちこち流浪することになった。ずいぶんと無駄足を踏んでしまった」と語っていますが、私はこの流浪が無駄足だと必ずしも思いません。
渋沢のいう流浪と、そこで経験した気長に待つ忍耐を学んだからこそ、のちの偉業が達成されたのだと思えてならないからです。




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