佐々木常夫 オフィシャルWEBサイト


コラム トップへ戻る


管理職の心構え
 
(その10)心の善悪より振る舞いの善悪に注意せよ

2023.3.25

実社会では「心」より「振る舞い」に重点が置かれる
 渋沢は人の行いについて、「志」と「振る舞い」の二面から考えるべきだと言っています。
志がいくら高くても、また良心的で思いやりに溢れていても、手際が悪かったり配慮が欠けていたりすれば、人に迷惑をかけて嫌われてしまう。
一方それほど志がなくても、振る舞いが機敏で忠実なら、人から信頼されて成功することがあります。
このように実社会においては、心の善悪より振る舞いの善悪に重点が置かれることが見受けられます。これは志は目に見えませんが行動は見えるからです。
もちろん行いの元となる志が曲がっているのに振る舞いのほうが正しいという理屈は、本来なら成り立つはずはありません。しかし、その行動が道義にかなっているように見えさえすれば、曲がったものでもあたかも正しいものであるかのように見えます。
そのくらい、振る舞いとは重要である。振る舞いが人に与える影響は大きいと渋沢は言います。

「尊王攘夷の志」から学んだこと
 渋沢が「志」と「振る舞い」についてこのように述べた背景には、天狗党あるいは西郷隆盛や江藤新平など、尊王攘夷の志士らの「志の失敗」があるかもしれません。
先にも述べたように、天狗党は尊王攘夷を訴えて挙兵して失敗し、西郷や江藤は新政府樹立後、朝鮮出兵をめぐる征韓論がきっかけで政府と対立し、命を落とすことになりました。
一体なぜ、そのようなことになったのか。天狗党も江藤も西郷も、初めはそれなりの志を持って行動を起こしたはず。しかし、その行動は粗暴かつ感情的でした。その結果、彼らはみな、見るも無残な結末を迎えることになりました。
ということは、そもそもその志自体が間違っていたのではないか。武力に訴えて世の中を変える。人命を奪ってでもやりたいことを貫く。そのような野蛮な志の持ちようでは、いかに信念が素晴らしくとも、結局は失敗に終わるということではないだろうかと。
皮肉なことに、渋沢は志を同じくしていたはずの尊王攘夷の志士たちの失敗から、志を貫くことの何たるかを教えられることになったというわけです。

形から入ることで志が養われる
 このことは言い換えるなら、「何らかの行動をする時はあれこれ考えるより形から入るのが大事だ」ということでもあります。
 例えば、仕事ではお客様や取引先に対して敬意を持つこと、失礼のないよう接することが基本ですが、そのためにはまずは敬語を使うなり丁寧に対応するなり、相手に行動や態度で示すことが大事なのです。
 敬語や挨拶の習慣は、誠意を相手に伝えることができるしこういう習慣を繰り返していると、やがて気持ちの方まで変わっていきます。
敬語を使ったり挨拶をすることを通して、相手を敬う気持ちや姿勢が自ずと身についていきます。つまり、形が心を作っていくのです。
中には、いくらやっても志の育たない人もいます。敬意もないのにやたらと挨拶だけ丁寧な、慇懃無礼な人間になってしまう人もいます。そうなると、社会でまるで信用されない人間になってしまいますから気を付けなければなりません。
自分はそういう人間になっていないか、形だけで中身のない人間になっていないか、時には振り返ってみる必要があります。
そもそも人間誰しも、それほど立派な志や行動力を持っているわけではありません。
形から入ってとりあえず結果が出せて、評価されたらそのことがやりがいになって、またがんばる。人はそうした行動のサイクルの中で成長していきます。
その意味で言えば、要領よく振る舞うことも大事なことかもしれません。
うまく立ち回ることで成功体験を重ねれば、成長速度もより高まるからです。
でも、だからと言って「うまく立ち回れば万事オーケー」とは言いません。立ち居振る舞いだけでやっていけるほど世の中は甘くないですし、ましてやずる賢いことをして結果を出すというやり方は、決して長続きしません。




その1その2その3その4その5その6その7その8その9その10その11その12