(その4)わざわいは得意な時に兆し、名声は苦悩から生まれる
2022.6.22
挫折続きだった青年時代
渋沢は『論語と算盤』の中で、次のようなことを語っています。
「トラブルや揉め事というのは、自分が得意になっている時に起きる。人はうまくいっている時、調子に乗りやすい。心に隙が生まれやすい。わざわいはこの隙をついて入り込む。だから調子がいい時も気を緩めないよう心がけなければいけない。
この言葉の背景には、渋沢自身が味わった度重なる挫折経験があるのではないかと思います。
まず一つ目の挫折は、前項でも述べた倒幕計画。数年を費やして準備してきたのに、一夜にして計画がおじゃんになっただけでなく、役人から睨まれて故郷を追われる羽目になってしまった。
このあと渋沢は身を隠すために京都に逃げますが、道中思い立って、かつて江戸へ訪れた際に出会った平岡円四郎という人を訪ねます。平岡は若き渋沢の才気を高く買い、「うちの家来にならないか」と目をかけてくれていた人です。
と言っても、平岡は一橋慶喜の御用人です。倒幕を目論む渋沢にとってはいわば敵方の人間でしたが、渋沢は背に腹は変えられないと腹をくくり、平岡に家来にしてもらうよう願い出ます。
窮地をしのぐため、敵方の懐に飛び込むという離れ業に出たわけですが、渋沢は倒幕を諦めたわけではありません。
やがて渋沢は二度目の挫折を味わうことになります。倒幕のボスにと期待していた慶喜が、幕府の将軍につくことになってしまったからです。
失意のどん底に突き落とされた渋沢でしたが、ここからまた次のチャンスが訪れます。慶喜の弟・昭武のお供としてフランスのパリ博覧会行きを命じられたのです。
「世界を見るまたとないチャンスだ」と考えた渋沢は意気揚々とパリへ渡り、様々な知識を吸収します。ここでまたもや三度目の挫折が。
在仏中に幕府が倒れ、天皇を中心とする新政府が生まれたために、渋沢は元幕臣として朝敵の扱いを受けることとなってしまったのです。
このように渋沢は次々と不運に見舞われますが、「日本を良くしたい」という高い志を持ち続けたことによって、新たな生き方を与えられます。大蔵省の高官であった大隈重信から大蔵省の役人に招かれ、明治政府の一員となって本格的に国づくりに携わっていく道を歩むことになるのです。
「環境の変化に対応出来る人」が一番強い
「かの渋沢も挫折と再起を繰り返したのか」と思うと親しみを覚えなくもありませんが、渋沢のすごいところは、うまくいかなくても自暴自棄にならず、その局面で柔軟に方向を変え、失敗を次のチャンスに生かしていくということです。
科学者のダーウィンは「最も強い者が生き残るのではない。最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは変化に対応できるものである」と言っていますが、渋沢もまたこの言葉通り、状況に柔軟に適応したからこそのちの偉業を達成したと言えるでしょう。
それともう一つ、渋沢のこの言葉には「何があってもむやみに落ち込まなくていい。人生、調子に乗る時もあれば不遇の時もある。腐るなよ」という励ましの意味も込められているように思えます。
事実、渋沢が大蔵省勤務を経て実業界で生きることを決意したのは四十代後半です。自分の天職に気づいてたどり着くまでに、相当の時間がかかっています。
しかしこの遅れこそが、次々と会社を起こす原動力になったと私は考えます。銀行に始まり、造船、紡績、製紙、電気・ガスと、渋沢は短期間のうちに後の日本を担う主要企業を立ち上げていきますが、これほどのスピード感で成し遂げられたのも、「出遅れてしまった」という焦りがあったからと言えるのではないでしょうか。
逆に言えば、渋沢が順風満帆に生きて早々に実業界に入っていたら、挫折を知らずにのんびりやっていたら、こんなに確実にスピーディーに組織作りを進めることはできなかったかもしれません。そう思うと、紆余曲折することは無駄どころか、必要なことだったと言えなくもないかもしれません。
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