現在の日本の引きこもりは70万人と推定され(内閣府)その予備軍は150万人以上いるという。いじめ、不登校、高校の中退、校内暴力の急増などは子どもの特性を無視した画一的教育システムに本質的問題があることが一因かもしれない。 日本の教育は英国数社理の5教科を実技科目より重視し、かつ全国一律の教育でその子どもの特性に応じた多様性ある教育にはなっていない。 その結果授業に付いていける子どもの割合がいわゆる七五三という小学で70%中学で50%、高校で30%となっている。 多くの子どもたちが毎日苦痛と劣等感を抱きながら学校に通っていることがさまざまな問題を起こし子どもの自立を妨げている可能性がある。実技科目が得意な子にはそれを選択させたり、授業についていけない子にはそれを救う方法をとってやるべきではないか。 この本は世界のさまざまな国の教育改革をレビューしその功罪にも触れている。 フィンランドではその教育改革によりOECDの中で国際的学力テストでここ数年トップを占めている。 フィンランドでは授業時間は先進国で最も少なくその目標はおちこぼれを作らない教育であり、中央からの縛りは大枠にとどめ現場教師の裁量を大きくし、弱者への思いやりや人間としての責任といった社会性を育む教育を重視している。その結果学力も向上した上にいじめや不登校もほとんどない。 日本は戦後、一貫して教育システムを変えていないが今日のようにこれほど自立できない子どもや学級崩壊、いじめの多発などが起っている現実に直面すると見直しをしなくてはならないかもしれない。 このような教育改革の実現は極めて難しいかも知れないが私たちはこの国の次世代を生きる子どもたちの惨状を座して見ているわけにはいかない。
私はかって読んだ本の中で印象に残ったものや正鵠を得ていると思ったフレーズをしばしば手帳に書き留める習慣があったが最近になってその中には論語の言葉がいくつかあることに気がついた。 「学びて思わざれば則ち暗し 思うて学ばざれば則ち危うし」「これを知る者はこれを好む者にしかず これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」「性 相近し 習、相遠し」(生まれながらの素質にそれほど違いがあるわけではない。その後の習慣によって大きな差がついていく)などであるがこのような言葉が自分の生き方に大きな影響を与えてくれた書籍であることを改めて感じた。 江戸時代以降、日本人にとって「当たり前」の源泉でありつづけた古典が論語である。ここに書かれた教えの数々が日本人の文化や常識の源泉となりその教えが明治維新や大戦後の日本の経済発展の大きな原動力ともなったようだ。
最近「超訳 論語と算段」(渋沢栄一著 阿部正一郎訳 総合法令出版)と「ビジネス教養としての論語入門」(守屋淳 日本経済新聞出版社)をたまたま連続して読む機会があった。 マックスウェーバーはキリスト教・プロテスタントの宗教倫理観に基づく仕事・ビジネスによって資本主義は発達するとしたが、これは誠実かつ勤勉に仕事をすることが利潤を得ることに繋がるということである。それに対して渋沢栄一は日本の武士道精神が、特にその中核のひとつである「論語」の教えこそ日本のビジネス道の基本としなくてはならないと考えこの本を表した。国を短期間で興そうとしたときそのコアにあったのが武士道であり論語であったというのは興味深い。 また「ビジネスの教養としての論語入門」は孔子の教えがわれわれの人生にどんな影響を与えてきたかを具体的例を示しながら丁寧に解説しており論語の精神を短時間で理解したい人にはお奨めである。 それにしても人間の基本的な徳は 「知 仁 勇」とか、「一言で生涯の信条としたい言葉は"恕"である」とか「"中庸"が大事だ」とかいう言葉はいまさらながらすんなり自分の胸に飛び込んできて常識を説く孔子の偉大さを感じる本である。