今回のリーダーは坂本龍馬である。
龍馬に絡んだテレビドラマや小説が出ると、ほぼ間違いなく多くの人の関心を引き、日本人には最も人気がある人物の一人である。
私にしても龍馬に関する本やドラマを、どれほど興味深く読んだり見たりしたか、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」など大学生のころ、それこそ寝食を忘れ夢中になって読み、龍馬にあこがれ、明治維新に生まれなかった自分をどれほど恨めしく思ったかしれない。
なぜ、龍馬はこれほどまでに人気があるのだろうか。
吉田松陰や高杉晋作など幕末の英雄たちが、小さいころから秀才の誉れ高かったりしたのだが、龍馬にはそのようなことはなく、成績も良いとは言えず、本もあまり読まなかったという。
19歳の時、江戸に出て北辰一刀流の千葉道場に入り、免許皆伝の腕前になったが、そのころでも特別、政治や社会情勢に興味を示していたわけではない。
龍馬が龍馬らしく行動するのは、勝海舟に弟子入りした28歳から、33歳で京都の近江屋で暗殺されるわずか数年のことである。その間に、神戸海軍操練所の塾頭になり、亀山社中を立ち上げ、薩長同盟を締結させ、海援隊を組織し、後の五箇条の御誓文の元となる船中八策を作っている。
その時間の短さに驚くとともに、その短い間に成し遂げた業績の大きさにさらに驚く。
ある時点から、龍馬は驚くべき速さで自己変革をし、社会変革をしていく。
それを可能にしたのは、誰からでも学ぼうとする素直で貪欲な性格と、地位や権威には無関心だったこと、広い世界観と実行力であった。
龍馬の生涯を振り返り驚くことは、彼は敵も含め、誰をも憎んだことがないという不思議ともいえる人間的魅力と強いヒューマニズムを持っていたことである。
こうした龍馬の人間的魅力は、彼の無欲さと自己否定の精神というか、信じられないような謙虚さがあり、その謙虚さゆえに、次々と自己変革ができていったようだ。
そして龍馬の壮大な発想は、彼自ら生み出した独自なものではなく、優れた一級の人材の知恵を自分流に取り入れ、それを膨らましていった、いわば応用力が優れていたせいのようだ。
そのため、龍馬は第一級の人材と聞けば、すぐにその地に足を向けて面談に行った。
勝海舟、松平春嶽、大久保一翁、横井小楠、西郷隆盛、後藤象二郎などから素直に学んでいった。
特に勝海舟の場合は、ことによったら斬ってやろうと思って会いに行ったのだが、少し話しただけで「この人には全くかなわない、弟子になろう」と感じ入り、弟子入りしたところなどは、龍馬の面目躍如といえる。
龍馬の偉業は、すべて無資本というか、他人の褌で相撲を取ることが多かったが、それができたのは龍馬の人間的魅力の賜物で、人との出会いを大切にし、人を選び、土佐藩以外のネットワークを大事にし、他人から優れたものを身に付けていった。
まさに「男子、三日会わざれば括目して見よ」(三国志演義)を地でいったのだ。
龍馬は人を愛することにおいて、並外れた性格を持つが、それは天下を愛することに繋がり、天下を愛するということは、日々の暮らしを愛し、国を愛することになる。
幕末の時代、龍馬ほど、国家国民を大事にし、最後の最後まで人を愛することを生き抜き、他人から学ぶことで自己変革したリーダーはいなかった。
龍馬はいつも森や山の彼方を見ていた。海の彼方に外国を見ていた。地球を見ていた。
事実と情報を重視し、AかBかといった二極対立方式ではなく、AとBを視野に入れながら、第3の道を探るという複眼の目線で物事に当たるという稀有な才能を持ったリーダーであった。
龍馬を語るとき、特筆すべき点は、そのフェミニスト振りというか、特別、女性に持てたことである。
龍馬には、千鶴、栄、乙女という3人の姉がいるが、特に乙女姉にはいろいろ面倒を見てもらい、江戸に出てからも、何かにつけて手紙を書いている。現存する龍馬の手紙は、127通であるが、乙女への手紙が16通と最も多い。
龍馬の初恋の相手といわれているのは、土佐勤王党幹部・平井収二郎の妹、加尾である。
この加尾はのちに山内容堂の妹の侍女として、京都へ行くが、龍馬が脱藩の時、その必要な品を用意したといわれる。
龍馬が19歳の時、江戸に出て、北辰一刀流の千葉道場で修業を積む。師事した千葉定吉にはさなという娘がいたが、龍馬はさなと恋仲というより、さなに強く慕われたようだ。
姉乙女にあてた手紙には「さなは今年26歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もでき、力は並みの男より強く、顔は平井(加尾)よりもよい」と評している。
龍馬が帰国した後、二人は疎遠になってしまうが、さなは生涯独身を通し、甲府市清運寺にある墓碑には「坂本龍馬室」と刻まれている。
そして龍馬は、京都の医師の長女の楢崎龍を、父が亡くなってから困窮していたとき見初め、30歳で祝言を挙げた。
龍馬は、お龍の境遇と妹二人を人買いから取り返した武勇伝を、家族あての手紙に詳しく書き送り、彼女を「まことにおもしろき女」と評している。
慶応2年(1866年)1月23日に暗殺されかかったとき、お風呂に入っていたお龍が全裸で二階の龍馬に知らせ、その機転で危機を逃れた話は有名で、龍馬は姉・乙女の宛への手紙で「このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かりました」と述べている。
その年の3月から6月、龍馬はお龍を伴って薩摩に下り、療養のために各地の温泉を巡った。龍馬は日本最初の新婚旅行といわれているが、こういう近代的なセンスがあるところも龍馬らしい。
龍馬にはこの3人以外に、高知の漢方医の娘・お徳や、公家の腰元・お蝶、長崎の芸妓・お元、京都の旅宿の娘・お国など数多くの女性の名が伝わるが、どうも龍馬のもて振りは尋常ではない。
龍馬は身の丈6尺(180?)と当時としてはかなりの大男で、写真で見る限り、それほどイケメンとは言えないが、なかなか味のある顔をしている。
自分の境遇や女性とのことを、姉の乙女にしばしば本音ベースで、手紙に書くなどということは、当時も現代もあまり例のないことであるが、このへんが龍馬の持ち味で、てらいも見栄もなく、自然体で自分を表現できる。龍馬の懐の深さと言ってもいい。
周りの女性たちが渾身の協力を惜しまなかったのは、龍馬があまり男女の性別意識もなく、相手の良さを素直に認めるところがあったからだろう。
そういえば、かつて、龍馬が勝海舟に西郷隆盛に会った印象を聞かれ「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と評したが、海舟は「評されるものが評されるものならば、評するものも評するもの」として、二人の器の大きさを認めている。
西郷隆盛にしても桂小五郎にしても勝海舟にしても、みな龍馬を好きになってしまう。
薩長連合の契約書ができたとき、桂はその実行を龍馬に裏書してくれと言っている。
雄藩の契約書に一介の浪人の保証を求めるなどということは通常はありえない。
いかに龍馬の信認が厚かったかという証左であろう。
目次
01. 土光敏夫 無私の心
02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力
03. 上杉鷹山 背面の恐怖
04. 西郷 隆盛 敬天愛人
05. 広田弘毅 自ら計らぬ人
06. チャーチル 英雄を支えた内助の功
07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと
08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人
09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー
10. 孔子 70にして矩をこえず
11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
12. 小倉昌男 当たり前を疑え
13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣
14. 吉田松陰 現実を掴め
15. キングスレイ・ウォード 人生に真摯たれ
16. 本田宗一郎 押し寄せる感情と人間尊重
17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力
18. ヴィクトール・E・フランクル 生き抜こうという勇気
19. 坂本龍馬 謙虚さゆえの自己変革
20. 浜口雄幸 男子の本懐
21. 天璋院篤姫 あなどるべからざる女性
22. 新渡戸稲造 正しいことをする人 23. セーラ・マリ・カミング 交渉力とは粘り強さ 24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない 佐々木のリーダー論
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