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こんなリーダーになりたい

11. 栗林忠道 散るぞ悲しき


栗林忠道は、1911年長野県松代の生まれ。長野中学を出て陸軍士官学校から陸軍大学に進み、次席で卒業する。
卒業後、アメリカに駐在武官として渡るが、フランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派の知米派であり、国際事情にも明るく、経済力や軍事力で圧倒的な米国を知り抜いていたため、対米開戦には終始批判的であった。
‘44年(昭和19年)6月、陸軍中将であった栗林は、硫黄島防衛の任務に就く。
硫黄島は、赴任直後に陥落したサイパン島と東京のちょうど中間地点にあり、米軍がここを奪取すれば、B29が直接東京に空襲が可能という枢要な位置にある。ここを守りきり、首都東京を大空襲にさらさないことが栗林の任務であった。栗林には米軍を釘づけにして、時間を稼いでいる間に終戦交渉を進められるのでは、ということを期待していた向きもあった。栗林の作戦は「勝つこと」ではなく「一日でも長く持ちこたえること」であった。
硫黄島は5日間で落とせると米軍は考えていた。事実、それまでのサイパン、テニアン、グァムなどあっという間に米軍の手に落ちた。その硫黄島を栗林は36日間も持ちこたえたのだ。
米軍の死傷者28689人(戦死6821人)、日本側の死傷者20933人(戦死19900人)と死傷者の数は米軍のほうが多かった。
日本軍の3倍以上の兵力および絶対的な制海権・航空権を持ち、予備兵力・物量・補給線すべてにおいて圧倒的に優勢であったアメリカ軍の攻撃に対し、これほどの戦いを見せたのである。
ベストセラー「硫黄島の星条旗」を書いたジェームズ・ブラドリーは「アメリカを最も苦しめ、それゆえにアメリカから最も尊敬された男」と栗林を称賛している。
アメリカの国立アーリントン墓地には、6名の海兵隊員が硫黄島の擂鉢山の山頂に、星条旗を押し立てているモニュメントが設置されている。硫黄島の戦いにおけるアメリカ兵の死傷者の多さのすべてはメディアによってアメリカ中に報じられ、この戦いはアメリカの負け戦ではないかとまで言われた中で、やっと陥落させたときのアメリカ軍の感動を表している。
このような奇跡的とも思える戦闘をなしえたのは、栗林の抜きんでたリーダーとしての力量である。
栗林が優れたリーダーであったのは、第1に冷徹に現実を把握したこと、第2にその現実に基づいた正確な目標設定をし、かつその確実な実行を成しえたこと、そして最後が2万人という大軍の全員を一つに束ねる人間力があったことである。
栗林が硫黄島に着任し、まず最初にしたことは、自らの足で島の隅々まで見て回り、地形と自然条件を頭に叩き込んだことである。
そして過去、日本軍が常道としていた米軍が上陸したところを集中的にたたくという水際作戦が、この島では不利であることに気づき、他の作戦――すなわち島中、地下10mに坑道を掘り、全長18kmにおよぶ地下要塞を作り上げ、米軍を上陸させたあとに攻撃する作戦――に切り替えた。
さらに栗林は、兵士たちに日本陸軍のお家芸の「バンザイ突撃」による玉砕を厳禁した。「バンザイ突撃」はどうせ勝ち目は無いから、捕虜になるより美しく死のう、という個人の美学によっている。栗林は自分たちの目的はできるだけ戦局を長引かせ、一人でも多くの敵を殺すことであると考えたので簡単に死ぬことを許さなかった。それが栗林が兵に配布した「敢闘の誓い」であった。
こうしたことは、目の前の現実を直視し、合理的に考えさえすれば、当然行き着く結論であった。観察するに細心で、実行するに大胆さは、リーダーに求められる資質である。
もう一つ、彼のリーダーとしての強みは、上に立つものとしての人間性であった。
着任早々、住民800人を全員戦火から救うべく疎開させたがこれは関係のない人々を戦火に巻き込んではならないという配慮である。。
この硫黄島は、わずかに22キロ平方メートル、世田谷区の半分くらいの島であるが、最大の問題は摂氏60度にもなろうという暑さと、水は時々降るスコールを貯めて飲むしかないという慢性的水不足であった。
栗林は「水は血の一滴」とし、将校の特権を許さず、将校も兵士も同じ量の水とし、食事についても上下区分なし。自分も含め、皆同じ食事とした。
栗林は司令官として、もっと安全な270Km日本よりにあった父島で、指揮をとっても良かったのだが、彼は部下が守る硫黄島に居を構えた。
指揮官は常に最前線に立つべしというのが、信条だったからだ。
栗林には部下と運命を共にするという明確な意思があり、それがすべての兵に伝わっていた。兵と同じ食事をとり、飲料以外は、兵と同じ一日コップ一杯の水しか使わずという姿を知って「この司令官には付いていこう」と全軍の気持ちは一致し、士気を高めた。
兵と共に突撃して死んだ指揮官は、陸軍の歴史の中で栗林のみである。
もう一つ栗林の特徴は、軍人であると同時によき家庭人としての姿で、このことは、家族への手紙によって知られる。栗林は着任してから、日本軍が敗れる間の約8か月の間に、家族に41通の手紙を出している。
どの手紙も心配を懸けまいとする無事を伝える文章から始まり、冒頭の一文は必ず「ご安心ください」で結ばれている。妻の義井、太郎、洋子、たか子という3人の子どもたちへ、留守先の心配や生活の注意など、几帳面で情愛溢れる家族思い、子煩悩な人柄が彷彿とさせる内容である。
特に出征のとき9歳であった末っ子のたか子に対する文章は「たこちゃん」と呼んでことのほか可愛がっている。
2万余の兵を束ねる最高司令官が手紙――といっても内容は実質的な遺書であったがーー
子どもたちにやさしく語りかけ、出征前にしようとしてできなかったお勝手の床板の隙間風を気にしたりしている。
家族を大切にする男だったからこそ、戦場では、目下の者にも気さくに接し、さまざまな局面で、部下に配慮ができる異色の指揮官なのであろう。
昭和20年3月17日、栗林は最後の決別電報を大本営に打電している。その最後に「国のため、重きつとめを果たし得で、矢玉尽き果て散るぞ悲しき」としている。国のために死んでいく兵士を栗林は「悲しき」と言わずにはおれなかった。しかし国運を賭けた戦争のさなかにあっては許されなかったことだったようだ。この「散るぞ悲しき」は新聞報道では「散るぞ口惜し」として伝えられた。
エリート軍人たる栗林が、いたずらに将兵たちを死地に追いやった軍中枢部へのギリギリの抗議の表現でもあった。
栗林は知米派で改選に反対していたこともあって、中枢部から遠ざけられ、万に一つも勝ち目の無い硫黄島に出されたという。もし、彼のような国際感覚に優れ、現実直視ができるリーダーが大本営にいたら先の戦争も変わっていただろうと悔やまれる。


目次
01. 土光敏夫 無私の心
02. 渋沢栄一 好奇心と学ぶ力
03. 上杉鷹山 背面の恐怖
04. 西郷 隆盛 敬天愛人
05. 広田弘毅 自ら計らぬ人
06. チャーチル 英雄を支えた内助の功
07. 毛利元就 戦略とは「戦いを略す」こと
08. マザー・テレサ 最も神の近くにいる人
09. ハロルド・ジェニーン プロフェッショナルマネージャー
10. 孔子 70にして矩をこえず
11. 栗林忠道 散るぞ悲しき
12. 小倉昌男 当たり前を疑え
13. スティーブン・R・コヴィー 7つの習慣
14. 吉田松陰 現実を掴め
15. キングスレイ・ウォード 人生に真摯たれ
16. 本田宗一郎 押し寄せる感情と人間尊重
17. 徳川家康 常識人 律義者 忍耐力
18. ヴィクトール・E・フランクル 生き抜こうという勇気
19. 坂本龍馬 謙虚さゆえの自己変革
20. 浜口雄幸 男子の本懐
21. 天璋院篤姫 あなどるべからざる女性
22. 新渡戸稲造 正しいことをする人
23. セーラ・マリ・カミング 交渉力とは粘り強さ
24. エイブラハム・リンカーン 自分以外に誰もいない
佐々木のリーダー論

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