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2011年7月アーカイブ

貴方は人生の主人公

私はこの数年間、著書や講演を通じて「仕事も大切であるが自分の生活も大切にしよう」というワーク・ライフ・バランスの必要性を説いてきた。
ある講演が終わって「私は仕事は定時に終え早く家に帰りたいのですが職場はみなすぐには帰らないため帰りにくい雰囲気なのです。どうしたらいいでしょうか?」という質問があった。私は「帰りにくくて帰れないなら帰らなければいいでしょう。早く帰ってやりたいことがあるなら早く帰ればいいでしょう。それは貴方自身が決めることであって私ではありません」と応えたことがある。
自分は何者であるか、どんな仕事や生活をしたいのか、どんな人生を目指したいのかといったことは自分でよく考え実践すべきでそういった自分の生き方の基本は例えば会社に入ったとき、30歳になったとき、課長になったときなど節目節目に自らたな卸しすべきだろう。そういったことが自分や周りの人そして社会を正しく理解し自分が幸せになることに繋がると思う。
人は会社や他人のために生きているのではなく自分のために生きている。
人は一人ひとり自分の人生の主人公なのだ、その席を決して他人に譲ってはならない。そのためにはそれなりの「決意と覚悟」が必要で節目の時期に自分のたな卸しをして自分の生き方を確認する必要がある。
自分を大切にすること、つまり自分自身が幸せになることを目指し努力すべきと思う。


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営業の本質

百科事典を見ると「営業とは営利を目的として業務を行うことをいう」とある。
一方、営業とは企業活動の集合体を指す言葉としても用いられており営業活動とは「利益」を生み出すことを目的としたもの、つまり「事業を営む」ことである。
そのためには顧客の欲しいものは何かなどを適切に探り当てそれを適正な価格で供給しなくてはならない。したがって営業の本質は「モノを売る」ことではなく「知ること」であり「事実は何かというファクトファインディング」が出発点にないと成功しない。
そうした活動を通じて利益を獲得していくわけだからから企業行動や営業の最先端に顧客がいる。
そういうことからドラッカーは「会社の目的は顧客の創造である」と喝破した。
つまり企業がどのような行動をとるかはある意味顧客が決定することになる。
顧客が何をいくらでどれだけ買いたいかによって企業の行動が決まってくるし、顧客が気づいていない、製品化したら喜ぶモノやサービスを探し出し提供していく。
それを正しく遂行することによって「顧客に支持と満足をいただき」結果として「顧客に幸せをもたらすこと」が営業の最終の目的である。
そのために必要なマーケティングとは小手先のスキル、技法ではない。顧客を基点とした活動、つまり顧客のニーズを満たすこと、あるいは顧客のニーズを作り出すという大きな発想法であり仕掛けのことだ。だから例えば生産部門に適切な品質やコストを確保してもらうことも営業の大事な仕事といえる。
私は企業の理想の姿は営業しなくても商品が販売できる、そういう仕組みを作ることだとさえ思っているし新しいビジネスモデル(例えばコンビニを展開するなど)を作るなどイノベーションを興すことも大事な仕事だと考える。


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科学の可能性と限界

 百年前に書かれたSF小説を今読むと大抵のことは現実化している。
百年前には荒唐無稽と思われたテレビ、飛行機、ロボットなどは我々にとっていまや身近な存在である。
 では当時のSF作家が神の如き慧眼で未来を見通していたかというとそうではなく当時の人たちが「こんなものがあればいいよね」と思った夢や憧れを小説として書いただけだ。
 当時の技術では実現不可能と思えるものでも、その後の科学の進歩で実現可能になっていった。
昔は天気予報も台風情報もわかる術がなくある日突然台風が来て壊滅的被害を受けたりしたが今は前もって備えができる。
結核は不治の病だといわれたが今はそんなことはないしさまざまな病気が医学の進歩で克服されている。
 昔、空を飛ぶということは危険に満ちたことで飛行機などそれこそ「とんでもない」乗り物だったろうがいまやあぶないから乗らないという人はほとんどいない。
科学の可能性というのはどこまでいくのだろうか。
では宇宙旅行や原発はどうだろう。なんとなく宇宙へはいつかは一般の人も安全に行けそうな感じがする。
そうしたら原発はどうだろうか。 フランスなどは人類の英知で安全に稼動させかつ環境に優しいエネルギーとして保持し続けたいと考えているようだ。それに対しいまやドイツやもちろん日本もこんなに危険なものは廃絶すべきだという人が多い。
今回の原発の事故はリスク管理の怠慢から起こったことに過ぎないのではないのか。仮にあのような津波が来ると想定していたら事故は防げたのではないのか。
このような原発擁護のことを書くと非国民のように思われるが原発は全廃すべきというあまりに右から左に飛んでしまう発想はもう少し柔軟に考えてもいいのではないだろうか  


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浜岡原発全面停止

多くの人が「脱原発」をいいはじめ今の状況では反論する人はいないというか口に出せない状況である。今回の「フクシマ事故」によって原発の増設は長期にわたってできないだろう
事故のためアメリカやドイツなど原発ができない国が多い中、フランスと日本がいわば敵失でその存在感を高めてきたが今回の事故でほぼ終わった。
私は大げさにいえば1000年に一度起こるかという今回の地震と津波と原子炉(この3拍子そろった場所は世界に日本とカリフォルニアしかないが)により津波の怖さもさることながらいまさらのように原発の恐ろしさを感じた。
そして今回、政府は浜岡原発の停止を中部電力に要請し中電はそれを受け入れた。
私が中電の社員だったら割り切れなさを感じるし、仮に役員会が政府の要請を即座に受け入れたら私が中電の株主なら株主訴訟を起こしたくなる。
もともと原発へのシフトは石油依存からの脱却を国是に政府が決めてきたことで、昨年も民主党政権はCO2削減のため2030年までに14基の原発増設を計画したのだ。
どこの電力会社が自ら喜んで原発を導入しただろうか。原子炉1基に巨額の資金と20年以上の歳月をかけ、住民への説得や資金提供をし、そして出来上がってみればトラブルシャットダウン、稼働率は5割、中間貯蔵施設もなかなか実現しないという苦労の連続、おそらく電力会社で原発を心から推進したいと思っている会社はなかったと思うし、このような事業は国がやるべきものではないか。
30年間で東海地震の起こる確率が87%などということは以前からわかっていたことだし津波の高さがどれくらいまで想定されるかは過去の事例を研究すればわかることだろう。浜岡に原発設置を決めたとき(福島もだが)政府はそれをどういうことで許可したのか。
それに87%は止め、数%なら止めないということは論理的に正しいのか。
いまさらとはいいながら電力会社の責任ばかりとは言えないだろう。


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左遷を左遷にしてしまうのは自分

 最近アサヒビールの瀬戸元社長の回顧録を読んでいたらこの方が何度か左遷されたそれを乗り越えてきたことが書かれていて興味深かった。
長く会社員をやっていれば意に沿わぬ人事に会うこともあり、なかには明らかに左遷と思われるケースもある。 ただ、そうした左遷人事を本当の左遷にするかどうかは、つまるところ自分しだいである。左遷人事でも何かしら得るものはあるもので傍流の人たちと出会い、そこで今までにない考え方を発見したり、新しい人脈を築いたりできれば、その左遷は意味があったと言える。
 「左遷」というのはしょせん価値観の問題で「新天地」であり「新しい体験ができる場」と考えれば、それはたんなる人事異動であり左遷にはならない。
 左遷された原因は上司に嫌われたり煙たがられたといった、たんなる私情から起こることかもしれないがだからといって上司を恨んだところで何の益もない。
 上司だって人間で公平に接しようと思っても、かわいいと思う部下もいれば煙たく感じる部下もいる。理不尽と思うかもしれないが、組織に属する限りそれは仕方のないことだ。
 これをいい機会と捉えて奮起したり自らを省みるきっかけにする。自分ではまるで身に覚えがない不当と思える人事でも、よく考えれば思い当たるふしはあるものだ。
 組織の中で力を発揮し引き立てもらうには、周囲や上司を味方につけるための根回しなどの努力も必要でその意味では左遷されたのも自分の責任であり、逆に上司の覚えめでたく栄転すればそれもまた自分の力なのだろう。
 人は自分の器どおりの人生しか歩めないと考えれば、左遷されても社長の器の人はそれをバネにいずれ社長になるかもしれない。左遷されたことを恨みそこで腐って終わるようなら、それはそれでその人の器なのだろう。


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「知る」と「識る」は違う

昔、私の会社に「3賢人」と呼ばれていた人がいた。1年間に200冊以上の本を読む人たちで何を聞いても答えられるいわば「物知り博士」であった。
この3人に共通したことがあった。それは3人とも仕事ができないというかやらないということだった。
仕事は知識をもっているだけでは良い結果が出ない。熱いパッションと実行力がいる。
私は東レ経営研究所で人材育成の仕事で研修などをしていて開講の挨拶をすることがあるがそのとき「皆さん、このような研修を受講しても何の役にも立ちませんよ。ただ皆さんの中で10人に一人か二人、この研修で学んだことを職場で実践する人がいます。そういう人のために私たちはこの研修しているのです」ということがある。
私の会社で講演会を開いたりすると話が終わって「今日は○○さんのいい話を聞いた」と言って帰る人がいる。その人にとっては単純に「いい話を聞いた」と言うことだが所詮「いい話を聞いた」いうだけである。
それがどうしたというのだ。「いい話を聞いた」「いい本を読んだ」「いい映画を観た」などただそれだけでそのことを自分の行動に落とし込まない知識をいくら積み重ねてもなんの役にも立たないと思う。
ある新聞のコラムで私は「多読家に仕事ができる人は少ない」と書いたことがあるが、その意味はただむやみに本を呼んでもそのことを自分で考えなくては本物にはならないと考えたからだ。
「知る」は単に「見た」「触れた」というだけで一瞬は頭に入ってもすぐに消えてしまう可能性があるが「識る」は頭に納められ、培うものである。
自分の生き方、考え方、性格、経験に応じて自分なりにその知識を吸収していってはじめて本物になっていく
「学びて思わざればすなわち暗し」(論語)


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