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2010年12月アーカイブ

ワークライフバランスの主役

先日ある大学からワークライフバランスの話をして欲しいと頼まれ出向いた。その大学はゼミでそのことを研究課題にしているとのことだった。
最近はまだ働いてもいない学生がワークライフバランスに興味を持つようだが私の話を聞いた学生の反応は企業の場合に比し、いまひとつだった。
ある会社の採用担当者が入社希望の学生に「どのような点を重視してわが社で仕事をしたいか」とい聞いたら「ワークライフバランスを重視したい」と答える学生がいたそうだ。
早くから自分のプライベートを大事にする心がけはそれなりに理解できるがちょっとタイミング的にミスマッチではないか。
会社というもの仕事というものが十分わかっていないというか、まだ経験もしていないものを先取りして学習しても無駄になってしまうことが多いと思う。
それに会社や仕事を理解するためには若いうちはともかく目の前の仕事に全力を挙げないとその意味するものを正しく理解できないしプロにもなれない。
自分に与えられた職務に全力投球しているうちに次第に社会のことや多くの人間を知るようになり、その中で自分が生きる意味働く意味を学んでいく。
一方、40代後半になっても夜遅くまで働くような人はその間、そういう努力をしなかったいわば未学習な人ともいえそのような人は50代になると会社のお荷物になってしまうケースが多い。
私がワークライフバランスを説く主たる対象者はそういった中間管理職でありそういう人たちに話したとき理解が進むようである。
ある程度経験を積んで仕事の内容や会社の仕組みを知った人がワークライフバランスの重要性を理解できたとき、自分も職場も変えていける。


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社会的弱者

私の3人の子どものうち1人は障害(自閉症)である。3歳でそのことを知ったときは驚きとどうして自分の子がという若干の怒りの気持ちであった。
自閉症者親の会に入ったり多くの障害を持つ子どもとその親に接しているうち、こういった障害はよくあることだと次第に現実を受け入れるようになっていった。
考えてみれば別に障害を持たなくとも弱い人はいくらでもいる。成績の悪い子、引きこもりがちな子など健常者であってもいろいろハンディを持った子がいてその親にとっては障害者の親と同様の悩みを抱えることになる
そういう意味では障害を持っている子どもも健常な子どももハンディを持っているという点では同じである。
何を持って障害者というのか?その垣根はあいまいではなかろうか。
会社の中には仕事のできない人、コミュニケーションをとるのが苦手な人などさまざまな弱い人がおりそのような人は会社にとってはある意味障害者に近い存在である。
会社というのは男性女性、仕事の早い人遅い人、話が得意な人寡黙な人、さまざまな人がおりそれらの人たち全体のアウトプットがその組織の成果となる。
そのためには強い人をより強くすることはもちろん大事だが弱い人をより強くすることが総体をかさ上げする上で必要なことである。
ユニクロでは障碍者雇用率8%と法律で定めている水準を大幅に上回っているが柳井社長は「障害者がいると皆が力を貸してあげるようになって全員で協力して仕事をするという連帯意識がでるので組織を強くする」という。
弱者に活躍してもらうこと、弱者をサポートすることが社会の安定や全員の幸福度向上につながりこの世の中をすみやすくする。
社会全体の品質や幸福度をあげるために為政者など責任ある人はもちろん社会を構成するすべての人たちが努力をしなくてはならない。


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役員報酬

先週、「正義の話」ということでサンデル博士の東大での話をした。その中でのもうひとつ議論になったものがある。 イチローは15億円稼ぐのは妥当か、オバマ大統領の35百万円の報酬は低いかというものだ。イチローは妥当だとかオバマは少なすぎるとかいろいろ意見が出た。 
それなら経営者の報酬はどうだろう。 
アメリカのCEO報酬は年間平均1330万ドル、ヨーロッパでは660万ドル、日本は150万ドルという。アメリカの経営者はヨーロッパの2倍、日本の9倍も受け取る価値があるのだろうか?聞けばアメリカの富裕層トップ1%は国の3分の1以上の資産を保有しているという。「人には成功がもたらす報酬を受け取る権利がある」というアメリカンドリームの面目躍如というところだろう。 
日本の場合は企業の業績はそのときのCEOの力量の結果とは必ずしも考えていないようだ。その企業の業績というのは長い間の従業員も含めた全員の努力と英知によってもたらされたものであってひとりそのときの経営者の手柄ではない。
現場で商品を開発し営業が販売ルートを築き、生産がコストを下げるなど多くの従業員の努力によって生じたものが多いからだろう。
経営の方向が間違っていなければ極端なことを言えばだれが経営をしてもそう変わらないということかもしれない。 
一方、ユニクロの柳井社長の報酬は3億円といわれているがあれだけの貢献からみたらこの額は低いといってもいい。また、今回の日航破綻のように経営者の能力、努力不足で経営危機になる会社があるのも事実である。
そういう意味では経営者は業績で評価されるというのもある面当たっているしその責任は極めて重いともいえる。 
しかしこういった経営者の実力がその会社の業績にダイレクトに結びつくというかその因果関係を明確にできるケースは少ないのではないか。 
それもこれも含めての役員報酬ということなのでアメリカに比して低いとはいいながら、日本の場合、現在の水準が妥当なところなのだろう。


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ノーベル賞と若者

先日ノーベル化学賞に根岸栄一さんと鈴木章さんが受賞した。連日その栄誉をたたえる記事とともに日本の科学技術の今後を心配する解説が続いている。
つまり最近の若い人の理科系志望者が減少していることや欧米に出かけて研究をする人が少なくなったということなどである。
理科離れの背景は子どもを巡る状況として、理科科学教育の変化、自然に触れる機会の減少、子どもの好奇心、遊びの変化などがあり、また社会人を巡る状況としては科学技術に対するメディアの扱い(原子力事故や感染症など失敗例の報道)、会社での文系出身者との待遇格差などさまざまな要因があるとされている。
しかし子ども巡る状況変化は例えば教育や遊びの変化などはすべての子どもの問題であり必ずしも理科科学教育だけの問題ではない。
理系への希望者数が減っているからといって日本の理系レベルが下がるというのは早計ではないか。日本における製造業のGDP比率が20%まで減少しサービス業が増加する社会環境の中では理系が相対的に減っていくのある意味当然のことだろう。
また文系と理系では生涯収入で文系が高いといわれるが、それは商社、金融、保険などに就職し製造業に行くことが多い理系との差がでているのだろう。
おそらく製造業の同じ企業の中では文系も理系もそれほどの差はあるまい。
海外に武者修行に出る若い人が少なくなったと嘆くがこれもまた理系に限ったことではなく新入社員の半分が海外では働きたくないというデータもある。
以前は海外に行くことがある種漠然と出世の道と思われたり得るものが大きいと考えられていた。しかし最近の若い人はさまざまな情報が入ってきて海外がそれほど夢のあるところではない、海外に行っても異文化の中で苦労も多いし、帰ってきてもポストがないなどいわばインセンティブがないことに若い人が気がつき出したというのが本当のところではないか。
理系科学の心配もさることながら私のような文系のものにとっては日本でノーベル経済賞を一人も取っていないことのほうがよほど気になるのだが。


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正義の話

「これからの正義の話をしよう」というマイケル・サンデル博士の書いた本がベストセラーになっている。そのサンデル博士の東大安田講堂での白熱した講義をビデオで見た。
その中で「東大入試にはちょっと点が不足する学生の父親が数十億の寄付をするといったら、その入学を認めるか」という質問に対しほとんどの学生が「フェアでないので認めない」と答えた。サンデル博士は「3000人入学するうち数人程度それを認めたら研究施設も図書館も充実されるからいいではないか」と言ったがほぼ全員NOであった。
「正義に反する」ということなのだが本当にそうだろうか?
第一そもそも学業の成績だけで入試判定することが正しいのだろうか。学生には学業以外の例えばスポーツや音楽の得意な人、ボランティア活動に熱心な学生も入学させてもいいのではないか?実社会では東大出身者はそれなりの評価は受けるが結局はペーパーテストの力だけではなく全人格的な勝負であることは誰でも知っている。
そもそも東大生の親の年収は一般の大学に比しはるかに多く家庭教師や高い受講料の塾に通えるという学業に恵まれた人たちとそうした経済力はもたない親の子とではもともとフェアな条件とはいえないのではないか?
アメリカの大学の入試判定は学業の成績だけではなくボランティアしたかどうかなどさまざまな要素を加味して決めるというし前アメリカ大統領のブッシュのように親が富裕ということで入学が認められるケースもある。
アメリカがこのような学業だけではなく多様性を重視するのはそれが結果として学生や大学にそれなりの恩恵をもたらすからだろう。
それにしてもこうした東大生の反応は日本の文化を象徴しておりそれはそれで純粋ではあるもののこの国のダイバーシティ浸透は大変なことだと思わざるを得なかった。


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父子家庭

父子家庭の支援を目指す「フレンチトースト基金」の発足記念シンポジウムにパネラーとして出席したことがある。
日本には一人親家庭が140万所帯(父子家庭は17万所帯)あり次第に増え始めている。そうなった理由の20%は連れ合いの死別でありあと80%は離婚である。近年増加傾向にある離婚の増加が一人親家庭を増加させている。
そのシンポジウムに何人かのシングルファザーが来ていたが予想に反し意外に彼らが明るいのには驚いた。
確かに大変な苦労の毎日であったと推察されるが父子一体となった毎日の生活は、言い過ぎかもしれないが両親のいる家庭よりずっと幸せそうにみえた。
またシングルファザーのコミュニティサイトもあちこちで立ち上がっていてお互いの情報交換、悩みの訴え、相談ごと、エールの交換が行われていてなにやら楽しそうなのだ。
ただそのようなサイトの中に母親のいない子どものことを考えて、例えばNHKの番組「おかあさんといっしょ」というタイトルは母のない子にとって酷だから止めて欲しいという記述があった。
更にある保育園で母の日に母の似顔絵を書くのも子どもがつらいからと抗議してそれを止めさせたという。
このような行動は少しいきすぎだと思う。
母のない子はそういういう番組以外でも母と子の愛の話はたくさん目にしているだろう。
1つや2つ象徴的番組のネーミングを変えることで、子どもに情報が入らないと考えるのは早計と思う。そんなことをいっていたら、十重二十重の情報管理をしなくてはならなくなり、嫌なものは見ない、聞かないというふうになってしまわないだろうか。
そういう情報を得ながら子どもたちはつらさや厳しさを体験しつつ乗り越えて育っていくのではないか。
母のない子は母のないさびしさ故に自分が築く家庭を暖かくしたいと思うのではないか。
私は6歳で父を亡くし、その後母は朝から深夜まで働くためある意味で父も母もない家庭で育ってきたがそれ故、父親の大事さ、母親の優しさを子ども心に胸に刻んで生きてきた。
マイノリティに心配りはしなくてはならないが、だからといって共通するテーマを奪うことはないだろう。


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